【人生を変える聖書のメッセージ#45】驚くべき不信仰「なぜ、イエスにつまづくのか?」マルコ6:1-6

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はじめに

マルコの福音書を読むとき、筆者のマルコが何を読み手に伝えたいかをおさえておくと、流れをつかむことができます。
そして、もちろん、それは神様がマルコを通して、何を私たちに語っているかと言うことです。

マルコを突き通しているテーマの一つは、「ナザレのイエスは一体、誰なのか?」と言うことです。

マルコの福音書は次のように始まります。

神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

聖書(マルコ1:1)

この一文には、はっきりと、イエス様は神の御子であり、キリスト、つまりメシアであると宣言しています。
これが、「ナザレのイエスは一体、誰なのか?」と言うことに対する結論です。

そして、今日の箇所までに、次のことが矢継ぎ早に書かれていきます。

  • 権威ある教えをするイエス(1:22)
  • 悪霊を追い出すイエス(1:25)
  • 多くの癒しと悪霊追い出しをするイエス(1:34)
  • ツァラアトを癒すイエス(1:42)
  • 嵐を鎮めるイエス(4:39)
  • 死人をよみがえらせるイエス(5:42)

私たちは、イエス様が神の子であると言うことを当たり前の前提として、聖書を読みます。
なので、「イエス様は神の子だから、当たり前にこのようなことをするよな」と読みます。

しかし、当時の人々にとっては、どうでしょう?
ナザレという小さな村で生まれた大工のイエスが、30歳を過ぎ、急にイスラエルで脚光を浴び始めるのです。

では、このナザレのイエスに対して、人々はどのような反応をしたのでしょうか?
今日の箇所である、イエス様が故郷のナザレに戻られた話から見ていきたいと思います。

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イエスにつまずいた人たち

1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。 「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。

聖書(マルコ6:1-2)

すでにイエス様の数々の奇跡は、ナザレにも噂になって届いていましたが、イエス様は、実際にご自分の郷里に行って、神の権威によって聖書を解き明かし、神の力を現されました。

続く、3節には、彼らの反応が書かれています。

この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。

聖書(マルコ6:3)

彼らはどのような反応をしたのでしょうか?

一言で言うと、

つまずいた。

「おお、やっぱり噂通り、彼はなんか違う。でも、ちょっと待てよ。彼はあそこのヨセフさん家の大工だろ。俺は彼の両親も知っている。兄弟もいるし、妹だって、近所に住んでいるぞ。彼は、俺らと同じただの人間じゃないか。」

当時、ある人々は、イエスをバプテスマのヨハネの生まれ変わりだと思い、
またある人々は、預言者エリヤだと思いました。
またある人々は、イエスを漠然と預言者のひとり、神の偉大なしもベであると信じていました。

イエス様が生まれてから、今に到るまでの歴史を見ると、時代ごとに、人々が見る視点によって、イエスに対する解釈は異なっていました。

民族の解放者、社会革命家、カウンセラー、偉大な道徳家、最高の経営者などです。

しかし、イエス様はそのうちのどれにも当てはまりません。
イエス様は、マルコの1:1の宣言の通り、「神の子イエス・キリスト」です。

イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」

聖書(マルコ6:4)

「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
イエス様は実際に、自分の郷里以外でも多くの人に受け入れられなかったので、この意味は、ルカ 4:24に書いていますが、「自分の郷里では歓迎されにくい。」と言う意味です。
なぜですか?
たくさん見ているからこそ、先入観もたくさんあるからです。

見たからと言って、信じられるわけではない

今日の箇所に、「見えない神をどうやって信じるの?見たら信じるから、見せてよ!」と言う人への答えがあります。
その人たちには、残念ながら、このように言わなければいけません。
「見たからと言って、信じられるわけではない」

イエス様の郷里の人々は、神であり、人であるイエス様を見ました。
でも、彼らは逆につまづいたのです。

それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。

聖書(マルコ6:5)

ここで、イエス様は、「何一つ力あるわざを行うことができず」と書いています。
イエス様に力がなかったという意味ではありません。

イエス様は、人々がイエス様が神の御子であることを信じなかったので、奇跡を行われなかったのです。

奇跡を見せて、「どうだ?私はこんなことができる。私はキリストだ。信じなさい」とはしないで、
信じるものを憐れみ、癒されるお方がキリストであるのです。

何が問題なのか?

6節には、郷里の人々の問題がはっきりと書かれています。

イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

聖書(マルコ6:6)

問題は、明らかです。
不信仰です。
今まで人々が、イエス様のなされたわざに驚いたが、今度はイエス様が、人々の「不信仰」に驚かれました。

不信仰でつまづいた他の人たち

不信仰により、つまづいたのは、イエス様の故郷の人だけではありませんでした。
1-5章までには、冒頭の通り、イエス様のメシアとしての多くの奇跡が書かれていますが、それを見た人々の反応も赤裸々に書いています。

イエス様の家族

イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。

聖書(マルコ3:21)

レギオンという悪霊が追い出された奇跡を見た人

すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。

聖書(マルコ5:17)

旧約聖書をよく知っている熱心なパリサイ人たちが一番つまづいたかもしれません。

  • 罪の赦し 

「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」

聖書(マルコ2:7)
  • 罪人と食事

パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」

聖書(マルコ2:16)
  • 断食

ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」

聖書(マルコ2:18)
  • 安息日 

すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」

聖書(マルコ2:24)
  • 悪霊追い出し 

また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

聖書(マルコ3:22)

結果はこうです。

そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。

聖書(マルコ3:6)

たとえ、神を愛する熱心さから来ていたとしても、パリサイ人たちが、本当はメシアだったイエス様を殺そうとしてしまったのは悲劇としか言いようがありません。

何を信じなかったのか?

彼らは何を信じなかったのでしょうか?
彼らは、「イエス様が神の御子キリスト」であることを信じなかったのです。

私たちはどうでしょうか?
本当に「イエス様が神の御子キリスト」であることを信じているでしょうか?

ここにいるほとんどの人がそう信じているでしょう。
また、少なくてもそうだと聞いて、知っているでしょう。

それを分かってて質問しています。

私たちは、どんな状況であっても、「イエス様が神の御子キリスト」であることを信じているでしょうか?
病の中にいても、家庭の問題を抱えていても、夢敗れて失望した状況にいても、大切な人がいなくなったとしても、もう自分ではどうしようもない状況にいたとしても、「イエス様が神の御子キリスト」であることを信じているでしょうか?

聖書は、まっすぐ語っています。

神にとって不可能なことは一つもありません。

聖書(ルカ1:37)

しかし、私たちはしばしば、状況が神様さえも動かせない壁のように思え、先入観を持つことがあります。
「こんな悪い状況、私のこの問題は良くなるわけがない。」

このような告白は、言い換えれば、「イエス様にだってできる訳が無い」、
そして、誤解を恐れずにいうならば、「イエス様は神の御子では無い」と言っているのと同じです。

私たちの祈りが聞かれないのは、神様の側に問題があるのではありません。
私たちの不信仰にあるのです!

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

聖書(ヘブル11:6)

いいですか?信じなければいけないのです!

イエス様は言われました。

イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

聖書(マタイ17:20)

からし種の信仰があれば、どんな大きな山だって動くのです。

なぜ?
神の御子であられるイエス様は、山を造られたお方だからです。

もちろん、どんな願いでも祈ったら、聞かれるという意味ではありません。
私たちは神様では無いからです。
イエス様は最善の方法を通して、祈りに応えられます。
なぜなら、イエス様は私たちを愛しておられるからです。

しかし、今日、覚えたいことは、私たちは、どんな状況でも、「イエス様が神の御子キリスト」であるという信じなくてはいけないということです。

イエス様を神の御子と信じ、子供のようにイエス様を信頼するものを、イエス様は決して見捨てはしません。

そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

聖書(マルコ5:34)

するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

聖書(マルコ10:52)

そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

聖書(マタイ15:28)

まとめ

さあ、今日、語られる主の御言葉に心を向けましょう。

私たちは、イエス様が、神の子キリストであることを本当に信じているでしょうか?
そして、その信仰が、私たちの日頃の生活に現れているでしょうか?

求め続け、叩き続ける祈りになっているでしょうか?それとも、諦めてしまっているでしょうか?

神の約束を忍耐を持って待ち続けているでしょうか?それとも、もう忘れてしまっていないでしょうか?

御言葉を信じて、先に進んでチャレンジしているでしょうか?それとも、恐れて止まっていてはいないでしょうか?

最後に、この御言葉が私たちの日々の告白と生活になるように、8:27-29を読んで祈りたいと思います。

8:27 それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、 イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
8:28 彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、 また預言者のひとりだと言う人もいます。」
8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」

聖書(マルコ8:27-29)
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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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