【人生を変える聖書のメッセージ#33】見ずに信じる者は幸いです「復活は絶対に信じられない?」ヨハネ 20:24-28

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はじめに

韓国のヤン・ジョンシンという女性牧師の話です。

6歳のときかかった熱病によって視力を失い、自分は何もできない価値のない存在だと絶望したそうです。
家族からもそう見られていた彼女は、神にひざまずいて祈りました。

「神様、みんな私を役立たずだと言います」
すると、神の御声が聞こえました。

「娘よ。耳が聞こえるではないか。口で話すことができるではないか。頭で考えることができ、手も使えるではないか。」

彼女は信仰をもってそれに応えました。

「主よ、耳で御声を聞きます。ロで主を賛美します。手で主の働きをします。頭で主のことを考えます」

1977年、彼女は韓国のキリスト教長老会で最初の女性牧師となり、牧会者や教授として生きました。
そして「いのちの電話」「アガペの家」などの社会福祉機関で、活発に奉仕活動を行いました。

この話のように、目が見えなくても、強い信仰を持つことができます。
聖書にも、「信仰は聞くことから始まる」と書いています。

聞くという行為は、神様の声を聞いて従うという謙遜な態度を表しているからです。
親の言うことを聞かない子供に限って、親の悪いことを見て真似します。

今日のメッセージの聖書の箇所は、イエス様が十字架につけられて三日後の話です。
日曜日の夕方、復活されたイエス様は弟子たちに現れます。

今日は、特に12弟子の一人トマスの反応が話の中心です。
「見ずに信じる者は幸いです。」というタイトルで共に神様の御言葉を聞いて参りましょう。

ゆうき牧師のYouTubeチャンネルでは、聖書の終末預言シリーズという世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当てた動画や、人生に適用できる3分間の聖書のメッセージ動画を見ることができます。少しでも興味のある方は、ぜひ、YouTubeのチャンネル登録をよろしくお願いします。

トマスの否定

それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。

聖書(ヨハネ20:25)

トマスが言った「決して信じません」は、二重否定が使われいる物凄く強い否定です。
英語ではnever、つまり絶対にしないという意味です。

現代にもトマスのような人はいますが、わたしの経験上、大きく分けて2種類のタイプがいます。

①復活は論理的に理解できないから、絶対信じない。
②自分が体験していないから、絶対に信じない。

この二つには落とし穴があります。
言い方を変えれば、

理解できたら、すべての人は信じるのか?
体験したら、すべての人は信じるのか?

ということです。
答えは、NOです。

①復活は論理的に理解できないから、絶対信じない。

まず、そもそも、神様のことは人間には理解しきれません。
残念ですが、もし私たちの脳みそですべて簡単に理解できるなら、それは本当の神でしょうか?
神は私たちのことは簡単に理解できますが、私たちには隠されて、理解できないことがあります。

これは、ヨブ記に書いています。

3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、 告げてみよ。
5 あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。

聖書(ヨブ38:3-5)

動物も含めた、自然界の完璧な秩序を誰が造って、どのように保っているかを説明できる人は、残念ながらいません。

②自分が体験していないから、絶対に信じない。

体験はどうでしょうか?

ルカの福音書にこのような話があります。
十人のツァラアトに冒された人が、イエス様に癒してもらいました。
しかし、神様に感謝して崇めるために戻ってきたのはたった1人でした。

15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」

聖書(ルカ17:15-18)

これは、神様の奇跡を体験しても、全員が神様への信仰へと繋がる訳ではないことを示しています。

トマスはなぜ、絶対に信じないと言ったのか?

では、トマスはどうなのでしょうか?
聖書を見てみましょう。

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。

聖書(ヨハネ20:24  )

復活したイエス様が他の弟子たちに会われた時に、いなかったので信じなかったとだけ聖書は記しています。
論理的に理解できないから信じられなかったのか、自分が体験していないから信じられないと言ったのか、わかりません。

しかし、いずれにせよ、27節を見ると、彼の問題は明らかです。

それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

聖書(ヨハネ20:27)

イエス様が指摘した彼の問題は、「不信仰」です。

トマスといえば、よく疑いの象徴のようなレッテルを貼られます。
しかし、彼には、強い忠誠心があったことをご存知でしょうか?

そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」

聖書(ヨハネ11:16 )

「主と共に私も死にます!」という強い意志と情熱を持った人物がトマスです。
そんなトマスが、なぜ、不信仰になり得るのでしょうか?

熱心さと信仰はイコールではないからです。
熱心で信仰がある人はたくさんいるけど、トマスのように熱心だけど信仰の弱い人もいるということです。

不信仰とは?

では、いつも私たちが使っている「信仰」という言葉を考えてみましょう。
どんな人が信仰が強くて、どんな人が信仰が弱いのでしょうか?

どんな状況でも、イエス様を信頼する人が信仰のある人です。
もっと、具体的にいうならば、神様のみことばにどれだけ絶対的な信頼を置いているかです。

トマスの「私も死にます!」という言葉は、何を土台にして出た言葉なのでしょうか?
自分の情熱が土台になっています。

自分>神の言葉

どのようなものでも、神の言葉より優先してしまうならば、それは不信仰です。
信仰とは、神の御言葉への絶対的な、そしてシンプルな信頼です。

パリサイ人や律法学者は、誰よりも神を愛し、律法に熱心でしたが、その熱心さがイエス様を十字架にかけてしまいました。

ペテロもそうです。
わたしは絶対に裏切りません!
でも、実際に、三度も「わたしはイエスという男を知りません」と言って涙を流しました。

もちろん、熱心さも大切です。
熱心さを知っているイエス様は実際にトマスに現れた。ペテロも然りです。
「あなたはわたしを愛しますか?」

福音書で、イエス様があるローマの百人隊長の信仰を褒める箇所があります。
その百人隊長のしもべは病気で死にそうだったので、イエス様を呼びました。

6 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。

聖書(ルカ7:6-7)

この百人隊長の信仰をイエス様はべた褒めします。
単純に御言葉を信頼したからです。
イエス様が実際に来なくても、関係ないと考えたのです。
みことばの権威一つで、癒しを信じたのです。
すると、信じただけで、本当に癒されました。

トマスの問題点

トマスの問題は、イエス様のみことばを信じていなかったことです。
実は、福音書を見ると、イエス様は十字架にかかる前に何度も、3日後に復活すると説明されていました。

31 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。
32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。

聖書(マルコ9:31-32)

弟子たちはみんな、そのことが何を意味するのか理解できなかったのです。
理解できなかったので、信じませんでした。

いいでしょうか?理解できないのが問題なのではありません。
理解できなくても、彼らは信じることができました。
しかし、彼らは実際に信じることができなかったのです。

この問題は、トマスだけの問題ではないということです。
マルコ9:32節を見れば、弟子たちもみな全滅です。

ちょっと、整理しましょう。
イエス様の御言葉を信じることが、信仰です。
弟子たちは全員信じることができませんでしたので、不信仰です。

では、私たちはどうなのでしょうか?
どんな状況でも、自分の思いに流されずに、御言葉を信頼することは可能なのでしょうか?

可能です。
それが、今日の箇所の希望です。メッセージです。

見ないで信じることは可能か?

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

聖書(ヨハネ20:29)

弟子たちは、見るまで信じることができませんでした。
しかし、イエス様はショッキングなことを言っているのです。

見ないで信じなさい。

はっきり言っています。
見ないで信じることは可能です。

ここにおられる人でイエス様の復活を信じている人は、たくさんいると思います。
どうやって信じたのですか?

見たのですか?
いいや、見ていないはずです。

じゃあ、どうやって信じたのですか?

それは、神様の恵みによって信じたのです。
もっと、わかりやすくいうと、神様が信じれるようにしてくださったのです。

聖書は、それを聖霊の働きと言います。

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

聖書(1コリント12:3)

イエス様に会ったトマスは、何と告白しましたか?
28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

トマスが「私の主。私の神。」と告白したのは、正確には彼がイエス様を見たからではありません。
聖霊の力によって、神であるイエス様ご自身が彼の目を開いたので、彼は信仰が与えられたのです。
これは、神の力によるものです。

もう一箇所、

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

聖書(エペソ 2:8)

賜物とは、神様から一方的に与えられるものです。

だからこそ、見えなくても、信じることは可能なのです。

妻ソンリムのお姉さんの話

妻ソンリムのお姉さんは、ソンリムが大学生になって救われてからの伝道で救われました。
最初は、「自分は仏教徒だからもう福音を伝えないで!」「そんなこと言わないで」「南無阿弥陀仏」とか言って誤魔化したりしていました。
しかし、ソンリム祈りに答えてくださった神様が、クリスチャンを周りに置いてくださり、クリスチャンになりました。

クリスチャンになったお姉さんは、同じくクリスチャンの男性と結婚し、今は小学生の子供と釜山で暮らしています。

しかし、そんなお姉さん夫婦に、離婚の危機が訪れました。

12/25、ソンリムにお姉さんから連絡がきました。
「もう、夫との間に問題がたくさんあって、今死にたいほど苦しくて、離婚したい」
「本当に自殺まで考えたけど、子供がいるからそれはできない」

実は、12月のこの危機の一ヶ月前の11月14日に、ソンリムにみことばが与えられていました。

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

聖書(マルコ9:29)

まだ、問題が目に見えて起こっていたわけではなかった時に、家族の問題のために「断食と祈りをしなさい」と神様は語られていたのです。

そして、祈り始めた1ヶ月後に、具体的に、お姉さんの夫婦の問題が明らかになりました。

私たち夫婦でも祈り始め、教会の祈り会でも祈ってもらいました。
でも、祈っている時は、何も見えません。
11月から、5ヶ月間も前が見えない霧の中での祈りでした。

ソンリムの韓国の親戚の家が火事になったり、私の体調がどんどん悪くなったり、祈りれば祈るほど、攻撃も強くなりました。
お姉さん夫婦の関係も悪化し、子供たちも不安定になっていきました。

しかし、主は、ヨシュア記のみことばを通して、私たちを励ましてくださいました。
「これは主の戦いで、主は前に進まれるということ。」
「ラハブの信仰を通して、家族が救われたこと。」
イースターに向けての祈りの有志にも、祈りのカードに書いて祈ってもらいました。

何が起きたでしょう?

先週の木曜の夜に、お姉さんから「夫婦に和解が起きた!」と連絡がありました。
ソンリムのお姉さんも、ほとんど毎日早天礼拝に行って祈っていましたが、ある日、ご主人が、突然、早天礼拝に行きたいといって一緒に行くようになり、
ご主人は教会のファミリーで信仰的な男性からアドバイスを受け、奥さんに敬語で話すようになったそうです。
子供たちも安定的になりました。

何も見えない時にこそ、私たちは祈る信仰が必要だということです。
何も見えない、結果がわからなくても、信じるのです。

「イエス様が、私の家族を訪れてくださる!」
「イエス様が、私を訪れてくださる!」

そうすれば、イエスさまがどんな問題も、神の御心に従って解決してくださるのです。
これが、私たちが信じている主権者なる神様です。

でも、今日の箇所からわかるように、神様は、私たちが不信仰である時であっても訪れてくださるということです。
これが、私たちが信じている神の愛です。

イエス様が、不信仰で絶対に信じない!と頑なな態度を取っていトマスを訪れてくださったように、
イエス様は、どんなに不信仰で頑ななものであっても訪れてくださいます。

まとめ

トマスの告白の後、ヨハネ20章はこのように結ばれています。

30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。
31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

聖書(ヨハネ20:30-31)

イエスが神の子キリストです。
私たちを造られた創造主。私たちの罪のために十字架で死なれたお方。
そして、三日後に死の力を打ち破り、蘇られた私たち全ての者の主です。

今日、不信仰にならずに、この福音を聖霊の力によって信じ、告白し、イエス様の御名によって永遠のいのちを得ることができたら幸いです。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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