自己犠牲の罠「あなたのその行動、罪悪感を配ってませんか?」聖書(創世記3:8)

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あなたは今日、家に友人たちを招いてパーティをすることにしました。

みんなを喜ばせようと、温かいスープを前日から仕込み、準備します。
みんなが集まってきておしゃべりをしている間も、出来立てのアツアツを食べて欲しいので、スープの仕上げを怠りません。

 「さあ、できたぞー!」とみんなに声をかけて、お皿に次々とスープをそそぎ、みんなに分けていきます。

みんなスープを飲んで「美味しい!」と喜びます。
あなたはそんな様子がうれしくて「どんどんお代わりしてくれよ」といい、みんな次々にお皿を持ってきてお代わりしてくれます。

その様子がとてもうれしくて、あなたはどんどんスープを配ります。
みんなが「いやー、美味しかったよ。ありがとう!」と口々に言ってくれました。 

そんなときに、あなたのお腹がグーッと鳴ります。

みんなは「あれ?」という顔をして、あなたに「え? おまえは食べてなかったの?」と聞いてきました。 
「いやいや、みんなの顔を見てたらうれしくて、自分のことなんて忘れてたんだ。なにか適当につまむから僕は大丈夫だよ」 

しかし、あなたのその話を聞いたみんなの表情は、どんどん曇っていきました。 
「ごめん。おまえのこと考えずに、俺、3杯もお代わりしちゃった」という友人もいます。

なんとなく、その場の空気が沈んでいってしまったのです。 

あなたはみんなのためにスープを作り、みんなを笑顔にしたところまではよかったのです。
しかし、自分の空腹感を我慢してまでスープを与えたことがわかると、みんなも罪悪感を覚えたのです。

人に喜びを配りたいと思っていたのに、結果として「罪悪感」を配っていたのです。

 聖書は、「自分の心が満たされて、本当の意味で他の人の役に立つ行動ができる」と言っています。 

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。

聖書(1テモテ6:6)

自分が満たされないで、よい行いをすると、偽善の罠があります。
人を満たそうとする前に、まず自分が「満ち足りる」ことが先なのです。

「いやいや、それは自分を愛するナルシシズムなんじゃないか?キリストは十字架で犠牲してまで人を愛しただろ」と思うかもしれません。

自分を自分で満たすわけではありません。
まず、あなた自身が本ようにキリストの愛に満たされますか?ということです。

また、私たちはキリストでありません。
十字架で人類すべての罪を背負い、死ぬ犠牲なんてできないのです。

むしろ、神は、ご自身の犠牲によって、私たちを100%の恵みで満たしてくださいました。

福音の本質は、まず私たちが神様に満たされることが先だということです。

社会は、「もっと働け」「みんな一生懸命やってるんだ」
「休んでていいのかな?」「みんなに申し訳ないなあ」「家族のために頑張らないと」と罪悪感を煽ってきます。

しかし、あなたがボロボロになるまで働いて、うつ病になって喜ぶ人はいますか?

神様は喜ばれるでしょうか?

まず、与えることを一回ストップして、神の愛と祝福を受け取ってください。
心のタンクがいっぱいになって、初めて他の人を飲ませる余裕が出るのです。

今日の祈り 今日の祈り
神様、気付いたら自分がボロボロです。今一度、私の心を満たしてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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