一緒に苦しむ「死を打ち破る復活信仰」聖書(1列王記17:1-6)

20200517
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1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」
2 それから、エリヤに次のような主のことばがあった。
3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。
6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

聖書(1列王記17:1-6)

はじめに

聖書を見ると、神を信じる人が苦難を神様が許されることが出てきます。

兄弟に売られて牢獄で暮らしたヨセフ。
全てを失った正しい人ヨブ。
バビロンに捕囚された預言者エゼキエル。

今回のコロナウイルスを通して、私たちは祈ってきました。

「神様、早くこの災害が収まるように」

実際に感染し、亡くなっている人がいる中で、これはすべての人の願いです。

しかし、もし、コロナを通して、神様が私たち人類に知って欲しい、「神のご計画」があるとしたらどうでしょう?

ここを通ることが御心なのだとしたら?

今日の箇所で、預言者エリヤはアハブ王に、数年間、雨も露も降らないと預言します。
すると神のことばどおりに、イスラエルには3年間干ばつが続きました。

なぜ、神様はイスラエルに干ばつをもたらしたのか?

アハブ王がイゼベルにそそのかされて、国取り入れたバアル崇拝に真向から対決するためです。

バアルは、肥沃の神。
カナンの地では主に農耕によって生計を立てていたので、雨が降らないと生きていけませんでした。
なので、イスラエルの民は、バアルという偶像を拝み祈ったのです。

「バアルよ、暴風と雨を降らせてください」

結果、どうなりましたか?
1列王記の18章で、エリヤと450人の預言者が対決し、バアルは沈黙。
エリヤが祈ると、イスラエルの神、聖書の神は、天から火を降らせ、完全に勝利しました。

当たり前です。
バアルは偶像であって、神ではないからです。

このまま読むと、「いやあ、すごいね。やっぱり信仰だね。エリヤもすごいね」

これで終わります。

しかし、今日、注目したいポイントがあります。

それは、イスラエルの民が「バアルではなく、神に立ち返るために」
「バアルはむなしい偶像であるということを悟るために」

3年間の干ばつを預言したエリヤ。

そのエリヤ自身も、この3年間の干ばつを通ったということです。

今日は「一緒に苦しむ」と言うタイトルでお話しします。

一緒に苦しむ

イスラエルに干ばつが起こる。
これは、神様が許した、いって見れば

「神に立ち返るための災害」

でも、エリヤもイスラエルに住んでいる。
エリヤも干ばつを通らなければいけないということ!

なぜ、エリヤはイスラエルの民とともに、3年間の干ばつを通ったのでしょうか?
実は、イスラエルの民も経験しなければいけなかったように、エリヤもこの試練を通る必要がありました。

それは、18章でバアルの預言者と対決するために必要な信仰を鍛えるためでした。

エリヤの信仰を強めるためでした。

どんな信仰か?

神のことばだけに信頼する預言者としての訓練。

イエス様はこのように言ったのを覚えていますか?

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

聖書(ヨハネ20:29)

見ないで信じるものは幸いですとあるとおり。

自分たちで経験して、やっと気づく。
それが私たち人間です。

しかし、信仰が成長すると、見ないでも、経験しないでも、信じることができるようになるのです。

聖書に書いている「神のことば」で十分だと。

みなさんは、今、全世界を襲っているコロナウイルスを通して神様が、教えたいことがあると思いますか?

僕はあると思います。

神様が、わざとコロナを送ったかはわかりません。

しかし、大切なのは、この危機を通して、私たち人類が神に思いを向けることができるか?ということです。

自分たちの生活が豊かになるように、バアルを崇拝したように、人類も、
自分たちの力、テクノロジー、資本主義のシステム、お金、様々なものだけに便り、

本当の神を見失っているならば、「神様はこのコロナウイルスによる災難を、神への悔い改めに用いることができるのです」

しかし、しかし、エリヤのように、私たちクリスチャンたちも、同じようにこの災難を通らないといけないのです。

私たちこそ、信仰が試されるのです。

エリヤを助けた3つの出来事

17章には、エリヤの信仰を強めた、出来事が三つ出てきます。

①カラスの養い→自分が神のことばで生かされていることを体験するため。 聖書(1列王記17:1-6)

1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」

聖書(1列王記17:1-6)

まず、一節に、「露も降りず、雨も降らない」と書いています。
これは、イスラエルは地中海性気候で、雨季と乾季に分かれています。雨季の秋分ごろから春分ごろまで雨が降り、乾季にはほとんど雨が降らないので、その6ケ月間は露に頼るしかありません。

夜に羊の毛を広げておくと露が降りるので、朝にその羊の毛を絞って水を集めました

聖書(士師記 6:36~40)

その露も降らないということは、きわめて激しいき干ばつだったことがわかります。

2 それから、エリヤに次のような主のことばがあった。
3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。

聖書(1列王記17:2-3)

そして、アハブに挑戦したエリヤは殺される危険性があったので、神のことばに従って、ケリテ川に逃げます。
いいですか?

ここで、エリヤを導いたのは、「神のことば」
エリヤが従ったのは、「神のことば」です。

ケリテ川に来たから、雨が降るわけではありません。
しかし、神様は、ちゃんと御言葉に従うものを養うのです。

4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。
6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

聖書(1列王記17:4-6)

カラスと川の水。
これは、神の身言葉に従うものが経験する奇跡です。

みなさんは、今まで、神の言葉に従って経験した奇跡がありますか?
ある方は、ぜひ、他の人にそれを分かち合ってください。
励ましの証になります。

「あまりないな」という人。
これからです。

エリヤのように直接言葉を聞かなくても、聖書の御言葉を読んで、自分の状況に語られていることをその通りに信じてください。
それが神様からの言葉なら、必ず奇跡が起きます。

しかし、奇跡はずっと続きません。

7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。

聖書(1列王記17:7)

奇跡の後には、また試練がきます。
なぜ、神様は試練を何度も与えるのか?

私たちは神の存在や恵みを忘れやすいから。
毎回、信じ、神を褒め称える。

次の起こった奇跡は、

②尽きないパン→他の人が神のことばで生かされていることを体験するため。 聖書(1列王記17:8-16)

シドンのやもめのところに行けという神のことばに、エリヤはためらいを感じたかもしれません。
シドンにもききんが及んでおり、
やもめであるなら当然貧しいはずなのに、どうやってエリヤまで養えるでしようか。
しかも、このやもめは異邦人です。

しかし、①カラスの養いの奇跡を経験したエリヤの信仰はバージョンアップしています。

13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」

聖書(1列王記17:12-13)

しかし、みことばに従ったときに、奇蹟が起こりました。

やもめがエリヤの預言を信じてエリヤにパンを与えると、やもめの家族がみな食べても粉と油がなくなりませんでした。

つまり、二番目の奇跡は、エリヤだけではなく、エリヤと関わる人が「神によって生かされていること」を体験するために必要でした。

しかし、エリヤは三つ目の奇跡を経験しなければいけませんでした。

③子供の復活→神のことばは死人を生かすことを体験し、証しする。 聖書(1列王記17:17-16)

やもめの息子が非常に重い病気になり、死んでしまいました。
夫も拠り所もないやもめは、絶望に追いやられたかのように感じたことでしょう。

やもめはエリヤを「神の人よ」と呼んで、なぜ「私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか」と言い、息子が 死んだのはエリヤのせいだとばかりに非難しました。

しかし、エリヤが祈った時に、この息子はよみがえります。

みなさん、本当に死んだ人がよみがえると信じますか?

その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」

聖書(1列王記 17:24)

これまでの奇跡が、主のことばによって起こったことです。

A.カラスの養い

2 それから、エリヤに次のような主のことばがあった。
3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。

聖書(1列王記17:2-3)

B.尽きないパン

14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」

聖書(1列王記17:14)

しかし、三番目の奇跡で、神様は何も言葉を発しません。

最上級の試練です。
神のことばが語られなくても、今までの神のことばから、神様がどう言うお方かを信じて、祈ったのです。

もちろん、神様は、答えられました。

エリヤは、「神様はことばを発せられなくても死者を蘇らせることができる」と信じることができるようになったのです。

つまり、このエリヤの三つの奇跡には段階があり、それぞれ意味があったと言うことです。

  • ①カラスの養い→自分が神のことばで生かされていることを体験するため。 聖書(1列王記17:1-6)
  • ②尽きないパン→他の人が神のことばで生かされていることを体験するため。 聖書(1列王記17:8-16)
  • ③子供の復活→神のことばは死人を生かすことを体験し、証しする。 聖書(1列王記17:17-16)

信仰生活が長くなるほど、私たちの信仰は試練を通して成長していきます。

最終的に、求められる信仰は復活信仰。

そもそも、スタートもここからだったはず。
これがなければ、信仰は虚しい。

そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

聖書(1コロサイ 15:14)

みなさん、本当に信じてますか?
もし、信じているなら、死は恐くならないはずです。

コロナの感染を怖がるのは、普通です。
誰でも死が怖いです。

私たちの信仰が進んでいく先は、死んでも生きる信仰です。

福音は、死の恐怖、死というすべてを一瞬で葬りさる絶望からの救いです。

14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

聖書(ヘブル 2:14-15)

終わりに

試練は、神のことばだけに信頼する信仰の訓練。

三つの奇跡を通して強められた信仰。

  • ①カラスの養い→自分が神のことばで生かされていることを体験するため。 聖書(1列王記17:1-6)
  • ②尽きないパン→他の人が神のことばで生かされていることを体験するため。 聖書(1列王記17:8-16)
  • ③子供の復活→神のことばは死人を生かすことを体験し証しするため。 聖書(1列王記17:17-16)

クリスチャンだから、コロナなどの災害を免れる訳ではありません。
もちろん、通らないように祈ります。

しかし、私たちが災害を通るとき、エリヤのように信仰が試されている可能性があるのです。

やもめと一緒に苦しんだエリヤ。

エリヤがいなければ、やもめはどうなっていた?
自殺していた。

しかし、エリヤの信仰によって、やもめは神の復活のわざを体験した。

この後で、エリヤは、バアルの預言者450人と戦うのです。

私たちも、この災害を通して、信仰を成長させ、復活信仰をもって日本のために神に用いられるように、祈りましょう。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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