35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。
聖書(マタイ 9:35-36)
36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
はじめに
2021年11月25日に発表されたバーナグループの調査によると、牧師の38%がフルタイムでの牧師職を辞することを真剣に検討しているという結果が出ています。
その原因は、バーンアウト(燃え尽き症候群)だといいます。
みなさん、アメリカの牧師の、おおよそ二人に一人が「真剣に」牧師を辞めたいと思っているんです。
「辛いな、辞めたいな」ではなく、真剣に牧師を辞めようと検討している。
日本も例外ではありません。
日本バプテスト連盟によると、同教団系列神学校の卒業生のうち,そのまま続けて牧師に就いていない者の割合は35%といいます。
つまり、神学校を卒業しても、牧師にならない、あるいは辞めてしまう人が、3人に1人いるということ。
牧師が燃え尽きる要因は、調査によると「仕事量が膨大、休みがとりにくい」など、色々ありますが、教会内での人間関係の問題や負担も大きな要因なようです。
実際、バーンアウトが見られる職種は、牧師以外でも、「教師、看護師、医師、カウンセラー、保健師、ケアマネージャー、ソーシャルワーカー、保育士、施設職員」など業務対象が直接「人」であるという共通点があるからです。
しかし、これは牧師だけではなく、教会に通う私たち一人一人も考える内容です。
私は、燃え尽きる教会員も見てきたからです。
教会は人の集まりです。
引っ越しや結婚を除けば、教会を去る人の1番の理由は、「教会内での人間関係」でしょう。
奉仕をしていて、キツくなるのも、「牧師や他の人に評価されない」など人間関係。
あの人がいるなら、教会に来たくない。
つまり、牧師だけではなく、私たち全員が、「燃え尽きないための方法」を身につける必要があるということです。
今日は、イエス様の働き方から、「燃え尽きないための方法」を共に聖書から見ていきましょう。
イエス様の働き
まず、今日の箇所を見ると、イエス様は熱心に働いておられたことがわかります。
35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。
聖書(マタイ 9:35)
「すべての町や村」→全て
「巡って」→行動
「教え、宣べ伝え、癒された」→必要を満たす
「あらゆる病気、あらゆるわずらい」→あらゆる
一言で言えば、「ものすごく忙しかった」
牧師がこのように働いたら、どうでしょうか?
冒頭の話を聞けば想像できますよね。
「燃え尽きちゃう!」
でも、私たちの模範であるイエス様は、聖書によると、激務中の激務、働きまくっていたことがわかります。
しかも、毎日、イエス様の周りには3千人、5千人の群衆がついてまわり、ひっきりなしにイエス様に「癒してください」「助けてください」と要求していたのです。
僕なら、発狂しますね。
つまり、ここで覚えたいことは、熱心に働きすぎるから、燃え尽きる訳ではないということです。
じゃあ、こう思いますよね?
なぜ、こんなに多忙なイエス様は、「バーンアウト(燃え尽き症候群)に陥らないのか?
聖書を注意深く読むと、
- 静かなところでの毎朝のデボーション
- 意図的に群衆から離れた
- 優先順位を決めて、明確な境界線を引いていた
など、私たちにとっても大切な「身体と魂の休息」も、当たり前にしていたということがわかります。
人間としての、ご自身の限界や弱さを受け入れていたことも重要です。
また、全力疾走したのが、3年間という短い期間だったことも影響しているかもしれません。
しかし、それだけで、燃え尽き症候群を防げるのかといえば、疑問です。
燃え尽きない秘訣は、そもそも内側に燃え続ける炎があるかどうかが大切だからです。
みなさんは、イエス様の働きの動機は何だったか、考えたことありますか?
「なぜ、イエス様は熱心に働かれたのか?」ということです。
これは、私たちが「なぜ、熱心に働くのか?」ということともリンクしますね。
「地位や名声を得るため?」→神の地位を捨てて、人間に迫害されて、十字架で死んだ。
「お金を得るため?」→お金を貯めるような記述はゼロであり、むしろお金を使わないで5千人を食べさせた。
「自己実現のため?」→神と人を愛し、そのために自分の人生、命を捧げられた。
もし、みなさんが、これらの動機でしているなら、それはイエス様の歩んだ道とは違います。
これらが大切じゃないとは言いませんが、これだけを一番に追いかけるなら、やがて、燃え尽きるかもしれません。
なぜ、イエス様は熱心に働かれたのか?
では、「イエス様の働きの動機は何だったか?」「なぜ、イエス様は熱心に働かれたのか?」
なぜ、でしょうか?
わかる人いますか?
聖書に書いてます。
36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
聖書(マタイ 9:36)
群衆への深い憐れみのゆえです。
これが、「イエス様の働きの動機」です。
「深くあわれまれた」 と訳されたギリシャ語「スプランクニゾマイ」は、私たちのからだの内臓に痛みを与えるような深い感情を表す単語です。
つまり、「五臓六腑に染み渡る」ほど、心が痛んでおられたということです。
それは、群衆の状況と心情に共感されたという意味でもあります。
どんな状況でしょうか?
「彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」状態です。
「弱り果てる」 のギリシャ語の原語「スキュッロー」は、「(外部の圧力から) 苦しめられる、(ずっと) もてあそばれる」ことを意味します。
「倒れる」のギリシャ語の原語「リプトー」は 「“(強圧的な力あるいは暴力などで) 投げられる」という意味です。
いずれも完了時制受動態で記されています。
つまり、長い期間、誰かに、苦しめられ、投げつけられたということです。
誰に、苦しめられ、投げつけられたのでしょうか?
ローマの圧政?それもあるでしょう。
しかし、それ以上に、罪やサタンの攻撃によって、苦しめられる奴隷や、捕虜のような状況です。
ここでは羊と羊飼いの比喩が用いられていますが、本来は、羊は、羊飼いによって外敵から守られます。
羊は非常に弱い存在なので、羊飼いが獣や外敵から守らないとすぐに弱り果ててしまいます。
また、ど近眼で、愚かなので、一人ですぐに群れから迷い出て、崖に落ちたり、野獣に食べられてしまいます。
では、イスラエルの民には、羊飼いがいなかったのでしょうか?
いました。いたはずです。
本当は、パリサイ人や律法学者、祭司が、彼らに聖書を教えて、羊飼いのように守る役目がありました。
しかし、マタイの福音書にあるように、彼らは腐敗しており、律法の誤用により、羊を縛って、危険に晒していたのです。
もしかすると、この指導者たちの律法主義や放任も、羊を苦しめ、投げつける要因だったかもしれません。
なので、イエス様は、パリサイ人や祭司たちとも、対立を繰り返されました。
なぜ、でしょうか?
宗教改革のためでしょうか?
自分の正しさを誇示するためでしょうか?
違います。
羊飼いとして、羊を守るためです。
苦しむ羊たちを憐れまれたからです。
燃え尽きないのはあわれむから
実は、イエス様の働きを見ると、常に、人々に憐れみを持っていたことがわかります。
イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。
聖書(マタイ14:14)
イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」
聖書(マタイ15:32)
家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
聖書(マタイ18:27)
イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。
聖書(マタイ20:34)
これらの「深くあわれんだ」「かわいそうに思って」 と訳されたギリシャ語は、今日の箇所と同じ「スプランクニゾマイ」です。
内臓に痛みを与えるような深い憐れみの感情です。
では、ここで考えてみましょう。
- ①私たちが、誰かと関わるとき、そのような深い憐れみがあるでしょうか?
- ②周りに弱り果てている羊が見えるでしょうか?関心を持っているでしょうか?
これは、牧師や宣教師だけではなく、全てのクリスチャンが、自問することです。
なぜなら、イエス様がこのように、働かれていたからです。
「自分が満たされること」ばかり考えている人は、他の人に憐れみを持つことすら、難しいでしょう。
常に誰かに不満を持つからです。
「あの人は私に~~した。~~してくれない」「教会が~~してくれない」「上司が、会社、家族が、社会が、国が…」
根本は同じです。
しかし、周りに人への憐れみを持っている人は、自分のことより、周りの人の満たされない状況を嘆き、憐れみます。
そこには怒りや不満ではなく、
「この人のために、自分にできることはなんだろうか?」
という謙遜な姿勢に現れます。
イエス様も、このように言っています。
あわれみ深い者は幸いです。 その人たちはあわれみを受けるからです。
聖書(マタイ 5:7)
まず、自分から憐れみを持つ人は、神様からも、人からも憐れみを受けるようになるのです。
逆に、人に憐れみを持たない人は、その人も裁かれることになります。
あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。
聖書(ヤコブ2:13)
もし、私たち一人一人が、周りの弱り果てた羊を憐れみ、羊飼いのように人に仕えるようになるならば、家庭が変わり、職場が変わり、社会が変わると信じます。
しかし、ここで壁を感じる人がいるでしょう。
自分こそが、弱り果てた羊です。
人に憐れみをかけるほど、余裕がないんです。
それこそ、自分がヘトヘトなのに、他人に尽くしていくなら、燃え尽きてしまうのではないでしょうか?
優しく、献身的な人ほど、うつになっているのではないでしょうか?
では、なぜ、憐れみを持つことが「燃え尽きないための方法」といえるのでしょうか?
それは、真の憐れみはイエス様から来るからです。
つまり、人に憐れみを持つ秘訣は、まず私たちがイエス様の深い憐れみを受け取ることなのです。
イエス様からたっぷりと憐れみを受け取っているなら、私たちの心は満たされ、その愛を他人に流すことができるのです。
イエス様の憐れみを受け取っているでしょうか?
イエス様の憐れみ深さを体験しているでしょうか?
体験していないなら。いつも不平や不満や足りなさを覚えているなら、あなたの隣で、あなたを憐れみ、あなたを担ぎ、あなたを導くイエス様の存在に気づいてください。
祈ってください。求めてください。
盲人のように、イエス様に叫び求めましょう。
イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。
聖書(マタイ 9:27)
取税人のように、罪深さを自覚して、祈りましょう。
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
聖書(ルカ18:13)
そうすれば、神はまず、わたしたちを憐れまれます。
そして、その憐れみが、周りに人にも、流れていくのです。
終わりに
「なぜ、イエス様は熱心に働かれたのか?」「イエス様の働きの動機は何だったか?」
群衆への深い憐れみのゆえです。
私たちも今日、考えてみたいと思います、
- ①私たちが、誰かと関わるとき、深い憐れみがあるでしょうか?
- ②周りに弱り果てている羊が見えるでしょうか?関心を持っているでしょうか?
憐れみは、神から来ます。
これをしっかりと土台にして生きるなら、働くなら、私たちは簡単には、燃え尽きません。
イエス様のように、深い憐れみを持つ人になれるように祈りましょう。