【人生を変える聖書のメッセージ#44】初代教会「教会の本質とは何なのか?」使徒2:37-47

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はじめに

静岡のJEA(日本福音同盟)総会に行った時の話です。
そこには、JEA(日本福音同盟)に加盟する教団・教派の牧師たち、関係者たちが日本中から集まっていました。

色々な課題が話し合われましたが、大きな課題の一つは、「教会に若者が集まらない」とのことでした。
しかも、その傾向は日本だけではないそうです。
1日目の夜に、インドネシアのバンバン先生という方が講演をされ、世界中の国々で青年たちが急激に教会から離れていると聞きました。

2日目の午後は、宣教について考えるディスカッションの時間がありました。
やはりここでも、多くの教団の教会に若者が少ないとのことでした。

その中のある教会の若い牧師が、こう切り出しました。
牧師になったばかりの時は、最初は礼拝出席者が、椅子を一列分しか出せないほど少なく、落ち込むこと多かった。
でも、今は、毎週70人くらいが集まっていて、その半分が子供や若者だとおっしゃいました。

若者が減っている教会がある一方、確かに若者が増えている教会があります。
その原因はなんだろう?と考えながら、いろいろな牧師たちの話を聞いていたとき、ある特徴があることに気づきました。
そして、その特徴は、使徒の働きの初代教会にあるということです。

この初代教会は、ペンテコステでの聖霊降臨の前では、わずかに200人だった群れが、その後わずか1日で3000人に増え広がり、質的にも、量的にも、地域的にも、どんどん成長していきました。
今日は、この使徒の働きから、「教会の本質」つまり、教会の本来の姿は何なのか?
そして、私たちが、本来力を入れるべきことはどこなのかを見ていきたいと思います。

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初代教会は何をしていたのか?

使徒2:37-41には、ペテロの福音メッセージを聞いていたユダヤ人たちの多くが、イエスさまを救い主として信じて、聖霊が降り、教会が生まれたことが書かれています。

続く42-47節には、その聖霊に満たされた初代教会が、一体何をしていたのかが、書いています。
ここが今回のメイン箇所です。

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

聖書(使徒2:42)

42節を見ると、大きく4つのことが行われていたことが書かれています。

①使徒たちの教えを守る
②交わり
③パン裂き
④祈り

この箇所を見るならば、教会とは、本来どのようなものであったのかがわかります。
もしかすると、現代の教会が力を入れていることと、少し違うかもしれません。
しかし、使徒2章の初代教会がオリジナルです。

まず最初に、

①使徒たちの教えを守る

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

聖書(使徒2:42)

使徒の働きを見ると、使徒たちは常に教え続けていました。

19 ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、
20 「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と言った。
21 彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやった。

聖書(使徒 5:19-21)

後に、バルナバとパウロも教えに力を入れています。

25 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、
26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

聖書(使徒 11:25-26)

特にパウロの宣教の中心は、何年か腰を据えてみっちり教えることでした。

そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。

聖書(使徒18:11)

9 しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。
10 これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。

聖書(使徒 19:9-10)

では、使徒たちが教えていた、「教えの内容」は何でしょう?

まず、明らかなのは、旧約聖書です。当時、新約聖書はまだありません。

福音書を見ると、イエス様はシナゴーグや宮でいつも旧約聖書から、真理を解き明かしていました。

イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

聖書(マタイ4:23)

また、それを解説し実践されたイエスさまの教え、十字架と復活も語られました。
つまり、使徒たちの教えとは、旧約聖書にしっかりと根ざした、メシアなるイエス・キリストと、そのイエス様を王とする神の国の福音のことです。

教会では、聖書のみことばが、偏らずに教えられるべきです。
ある一部分だけを強調したり、新約だけから教えたりしてはいけません。

旧約聖書にしっかりと土台を置き、イエス様が待望された救い主メシアであること、そして、イエス様が王である神の国が、約束の聖霊によって、広がっていくという聖書の流れを抑えた教えが必要です。
使徒の働きの初代教会では、このことがしっかり教えられていたので、ユダヤ人も、異邦人も、多くの人が救われて、成長して行きました。

次に、

②交わり

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

聖書(使徒2:42)

クリスチャンはこの交わりという言葉をよく使います。
「今度、ゆっくり交わりましょう!」

しかし、私たちの感覚と初代教会の交わりはちょっとずれている可能性があります。
交わりというギリシャ語は、「コイノニア」といいます。
そうです。二階のホールのコイノニアという名前はここから来たのです。

コイノニアは、本来、何かを共有する、シェアするという意味を持っています。
初代教会の教会員は、時間を共有するだけではなく、貧しい人たちに所有物を分け与えるという施しが盛んであったことは、44-45節を見れば明らかです。

44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

聖書(使徒2:44-45)

貧しい人に施しをすることは旧約聖書でもよく語られていたことですし、イエスさまもこの「コイノニアの交わり」を命じておられます。

持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。

聖書(ルカ12:33)

私たちが「交わり」と聞いて、想像しやすいイメージは、楽しく時間を過ごすことではないでしょうか?
もし、教会の中心がそのような交わりなら、世の中にも同じように、楽しく時間を過ごす集まりはたくさんあります。
「なになにサークル」に行けばいいのです。

しかし、教会はそのような交わりからは、一線を画(かく)するのです。
それは、旧約聖書から変わらない、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という神の愛に根ざす交わりです。

世の中は、自分が楽しい交わりを求めます。自分にとって、あまりメリットのない交わりには行こうとしません。
初代教会の交わりは、犠牲を伴いました。
しかし、結果としては、犠牲を伴ったとしても、初代教会の交わりには大きな喜びがありました。
なぜですか?
聖霊の喜びがあるからです。
もらうよりも与える方が幸いだからです。

どうでしょうか?
聖書を見ると、私たちの感覚とは少し違うことがわかって来ませんか?

次は、

③パン裂き

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

聖書(使徒2:42)

パンを裂くとは、聖餐式のことです。

初代教会の礼拝は、この聖餐式が中心的でした。
使徒の20:7には、日曜日に、クリスチャンたちが聖餐式をするために集まったとあります。

週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。

聖書(使徒20:7)

私たちが聖餐式というと、キリスト教の聖なる儀式というイメージを持っているかもしれません。
しかし、聖餐式は、そもそも旧約聖書の過越の食事が元となっています。

この過越の食事にイエス様の十字架の死と復活が隠されていることを解き明かされた方が、イエス様ご自身でした。

19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。 」

聖書(ルカ22:19-20)

イエス様が、十字架にかかる前の過越の食事の際に、裂いたパンは、「アフィコーメン」と言います。
この「アフィコーメン」は、過越の食事の際に「半分に割られ、白い布でくるまれ、隠され、見つけられます」
すなわちイエス・キリストの死と葬り、そして復活を表しています。

食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

聖書(ルカ22:20)

イエス様が、この時に飲まれたぶどう酒は、過越の食事において三回目に飲む杯。贖いの杯と言われています。
すなわちイエス・キリストの人間の罪をあがなうために流された十字架の血を表しています。

つまり、私たちが聖餐にあずかる時、感動もなく、感謝もなく、儀式的になってしまうなら、何かがずれています。
聖餐式を行うことは、私たちの罪のために、ご自身をお捧げになられたイエス様の恵みを覚える礼拝の中心なのです。

最後は、

④祈り

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

聖書(使徒2:42)

初代教会の中心は祈りでした。

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

聖書(使徒3:1)

この箇所を見ると、ペテロとヨハネは毎日、祈るために神殿に行っていたことがわかります。

また、ペテロが迫害に遭い牢獄に入れられたとき、初代教会は、今度は宮ではなく家に集まって祈っていました。

こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。

聖書(使徒12:5)

初代教会の教会員は、毎日、宮でも、家でも、熱心に祈っていたのです。
私たちが祈りというと、とても自由で個人的な行為のように思えます。
必要な時に、個人的に祈る。

それも大切です。
イエス様は、よく一人、荒野に退いて祈っておられたからです。

しかし、毎日、定期的に、教会に行って捧げる祈り。
毎週、教会員とともに、熱心に祈る祈りも、初代教会には、欠かせなかったのです。

こう見ると、毎週の祈り会で一致して祈ることや、早朝にわざわざ教会に来て祈る祈りの重要性がわかります。

イエスさまも、いつも祈るようにと命じられていました。

34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。 」

聖書(ルカ21:364-36)

いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

聖書(ルカ22:40)

バランスが必要

さて、初代教会はこれら4つのことを行なっていたことがわかりました。

①使徒たちの教えを守る
②交わり
③パン裂き
④祈り

しかし、ただ単に行うだけではありません。

42節の「堅く守り」という言葉に注目してください。

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

聖書(使徒2:42)

この固く守りという言葉には、「真摯に取り組む、変わることなく続ける、専念する」という意味があります。

そして、この言葉は、使徒たちの教えだけを固く守っていたのではなく、ギリシャ語を見ると、4つのことすべてにかかっています。
新共同訳にはこうあります。

彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(新共同訳)

聖書(使徒2:42)

つまり、バランスが必要だということです。

実生活の中での日常的な実践

しかも、46-47を見ると、「毎日」、しかも、宮でも家でもとあります。

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

聖書(使徒2:46)

つまり、初代教会のキリスト者は、熱心に、毎日、教会でも家でもどこであっても、これらのことをしていたのです。

彼らにとって、みことばは、単に知っているという知識レベルのことではありませんでした。
彼らはみことばを毎日の実生活の中で、日常的に、実践していたのです。

ある牧師は、こう言いました。
「あなたの教会は、聖書を信じている教会ですか?それとも、聖書に生きている教会ですか?」
私たちはどうでしょうか?

しかし、問題は、みことばへの情熱、交わりの実践、聖餐式の感動、祈りの力がどこから来るのかということです。
初代教会がどのように誕生したのかを考える必要があります。
初代教会はどのように誕生したのでしょうか?何が私たちを買えるのでしょうか?

1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

聖書(使徒2:1-4)

そうです。聖霊が注がれ、満たされることによって、初代教会にリバイバルが起こったのです。
リバイバルは、教会から始まります。聖霊に満たされた私たちから起こるのです。

ある人は、個人的なみことばの学びに熱心だけど、交わりが希薄かもしれません。
あるいは、交わりは熱心にするけど、みことばの土台が弱い人もいます。

しかし、聖霊に満たされているクリスチャンや共同体は、みことば、交わり、聖餐、祈り、全てに対して熱心になり、バランスが生まれます。
そして、聖霊に満たされた教会は、神への賛美が湧き溢れ、教会外の人々に良い証をたて、結果として、多くの人が救われていくのです。

神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

聖書(使徒2:47)

まとめ

メッセージの最初に、若者が増えている教会に共通した特徴があると言いました。
その特徴とは、使徒の働きの初代教会のように、聖霊に満たされて、みことば、交わり、聖餐式、祈りと、本当に大切なことに集中している教会でした。
よく考えたら、当たり前です。それが聖書に書かれた聖霊が導く教会のオリジナルだからです。

最後に、使徒2:42-47節までをご一緒に読んで、祈りたいと思います。

42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。
44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

聖書(2:42-47)
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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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