愛って何?愛されない理由。愛せない理由「本当の愛は〇〇を伴う」

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はじめに

今日は、聖書の中に書かれている、「愛」について解説します。

実は人はずっと愛の中を歩み続けています。例えば、父・母の愛、兄弟の愛、友人の愛、男女の愛、夫婦の愛、子供への愛、子供からの愛、、、本当にたくさんの愛を受け、また愛を注いでいますよね。でも実際には、こんなにも愛があふれているのに、もっと愛がほしい、愛されてない、愛することができない、と思うことがありますよね。愛って本当はどんなもので、どうしたら満足できるのでしょうか?

この記事を読めば、「愛」の本当の意味かわかるようになり、私が本当に大切な存在なんだということがわかるようになります。

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聖書は愛について何と言っているのか?

結論を一言でいうと、 神の愛は相手を無条件に受け入れ決して変わることはない ということです。

6つのポイントで聖書が愛についてなんと言っているかを詳しく見ていきましょう。

愛とはどのようなものか?

実は聖書で愛を表現するのに4つの言葉を使い分けています。

エロス:異性を求める愛。愛されることで満足する。
フィリア:男女を問わず同じ価値を共有している相手を大切にする友情。
ストルゲー:家族の間の尊敬や大切にする愛

これら3つの愛はどれも人間関係を円滑にする為に必要で、なくてはならないものです。誰もが日常生活の中で、お互いに必要とし、また分け与えている愛ですよね。
でもこの愛を注いだ相手にも同じ思いを持つことを求める愛です。表現が乱暴かもしれませんが、「いつかは自分を愛してくれるからの愛」です。

アガペー:無条件の神の愛

無条件の神の愛は、愛する対象から見返りを求めない、一方的に注がれる愛です。聖書はこのように書いています。

愛は与える相手に資格や条件を求めない

4愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、

聖書(1コリント13:4~5)

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

聖書(ローマ5:8)

「罪びとであったとき」というのは、神様に顔を向けず反対方向への人生を歩んでいるの人のことです。「神様の無条件の愛」は神を愛する人にだけではなく、多くの神様を信じていない人々の為にも明らかにされているのです。

また一定の条件を満たした人にだけ注がれるのではありません。例えば、お金持ち(金銭)、テストで優秀な人(知性)、背が高い人(肉体)や、道徳的な人など、世の中の価値基準でそれなりのレベルにあることが条件にはなりません。無条件に、全ての人に神様の愛は現わされているのです。

愛は永遠に続く

しかし、あなたは変わることがなくあなたの年は尽きることがありません。

聖書(詩篇102:27)

愛は決して絶えることがありません。

聖書(1コリント13:8)

神様は永遠で変わることがない方だと聖書には証言されています。また愛そのものが神様とも書かれています(1ヨハネ4:16)。神様は決して変わらない方ですので、愛もまた永遠で多くなったり、少なくなったりすることもありません。神様の愛はいつもフルサイズで私達に示されています。

愛は犠牲をともなう

この神様の無条件の愛を私達が理解できるように、神様は一つのことを計画され、実行にうつされました。その方法である十字架刑はローマ帝国で最も重い処刑方法で、罪を犯した人の命をもって罪の代償としました。

神様の計画とはいえ、この残酷な刑罰にイエス・キリストをかけることを、なぜ神様は計画されたのでしょうか。

その理由は私たちの罪の身代わりとして、罪の代価を支払うためです。

私達は犯した罪のための代価を払われなければ、私達は永遠のさばきに落とされるのですが、その代価はあまりにも大きく、私たちには負いきれないものなのです。
そのため神様はイエス・キリストを私達が犯した罪のための身代わりとして、十字架に差し出すという犠牲を伴った神の愛を示されたのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

聖書(ヨハネ3:16)

愛は最も大切な教え

このように無条件の愛はキリスト教を特徴づけるストーリーです。そしてイエス・キリストの十字架に現わされたこの愛を私たちも「神と私との間」で「私と隣人との間」で示すようにと書かれています。

37イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38これが、重要な第一の戒めです。
39『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

聖書(マタイ22:37~39)

イエス様は聖書のなかで最も大切な教えは何かと聞かれて、神を「無条件の愛」で愛することと、人を「無条件の愛」で愛することだと教えられたのです。
なぜなら、あなたも、あなたの隣にいる人も神様の「無条件の愛」で等しく愛されているのですから。

どのようにしたら愛を持つことができるのか?

まず最初に神が私を無条件の愛で愛されたことを感謝しましょう。

9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

聖書(1ヨハネ4章9,10)

順番が大事です。

1.神が私を愛してくださった。
2.その愛の現れとして、御子を地上につかわし、十字架の贖いをなしてくださった。
3.神の愛は私たちにすでに示されている。

今、私たちが夕食会に招かれてテーブルに座っているとしましょう。きっと最高の食事と飲み物が次々と出て来て、私たちの心もお腹も満足させるにちがいありません。その食卓を準備し、食事を整え、最高の雰囲気をつくるのはだれの役割でしょうか?
当然、私たちではなくこの夕食会を計画し、実行に移した夕食会のホストですよね。
神の「無条件の愛」も夕食会の最高の食事と飲み物と同じように、私たちが用意することはありません。神様が私たちの目の前にイエス・キリストによる身代わりの十字架を通して、「どうぞ!」と提示してくださいました。
私たちは、ただイエス・キリストの十字架により私の罪はすべて赦されたと信じ、「無条件の愛をありがとう」と言って受け取るだけでよいのです。

まとめ

結論を一言でいうと、 愛は相手を無条件に受け入れ決して変わることはない ということです。

それぞれのポイントをまとめると、三つに要約できます。

  1. 愛の種類はたくさんあるけど、神様の愛は無条件の愛
  2. 無条件の愛はイエス・キリストの十字架で現わされた
  3. 無条件の愛は私にも、既に提供されている

参考:キリスト教教理入門(いのちのことば社)
   聖書辞典(いのちのことば社)
   愛に生きる・・・愛とはなんぞや?(西村 公伸)

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