「どんな態度でネット礼拝をしていますか?」聖書(1サムエル 21:1-9)

20200426
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1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」
2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。
3 今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」
4 祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」
5 ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」
6 祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日主の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。
7 ──その日、そこにはサウルのしもべの一人が主の前に引き止められていた。その名はドエグといい、エドム人で、サウルの牧者たちの長であった──
8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまりに急だったので。」
9 祭司は言った。「ご覧ください。あなたがエラの谷で討ち取ったペリシテ人ゴリヤテの剣が、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それにまさるものはありません。私に下さい。」

聖書(1サムエル 21:1-9)

はじめに

コロナウイルス拡大による、緊急事態宣言によって、全国の教会も揺れています。
先日、東京のある牧師と電話で話したとき、今回のコロナ対策を巡って牧師同士がSNS上で揉めていると聞きました。

緊急事態でも集まるべきか、集まらないべきか。
ネット配信すべきかどうか。
ネット配信で礼拝を捧げる時、家での服装はどうするべきか。

みなさんはどう思いますか?
おそらく、人によって考えが違ってくると思います。

違う牧師からも聞きますが、教会員の意見をまとめたり、大きな重責の中で決定を下すで牧師たちがかなり疲弊しているらしいです。

ガーデンチャーチは、みなさんがこの危機的状況の中で、みことばを土台にし、方向性を理解してくださっています。
牧師として、とても感謝しております。

この状況で、私たちが問われているのは何でしょうか?

それは、心のあり方です。

本質的なものが、今まで形式や習慣に覆われていたからです。

つまり、危機や苦難がこなければ、のらりくらりしていても何とか「クリスチャン」をやってこれたのです。
しかし、危機や苦難によって、もっとも大事なものは何か?

テレワークが進み、「あれ、仕事ってこんな少なかったっけ?」と今までいかに無駄な仕事をしていたかに気づいています。

クリスチャンも同じです。
心という信仰の本質が問われているのです。

今日は、ダビデの物語から、「どんな態度でネット礼拝をしていますか?」というタイトルで神様のメッセージを聴いて参りましょう。

心のあり方を探る

これはダビデが王になる前の話。
サウルに命を狙われて逃げたダビデは、何も持っておらず、空腹だった。
祭司アヒメレクのところに行き、パンを求め、剣を手に入れる。

という話。

3 今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」
4 祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」

聖書(1サムエル 21:3)

祭司のところには、聖別されたパンしかありませんでした。
聖別されたパンとは何でしょう?

6節では、「臨在のパン」とも言われています。

すなわち、第一の幕屋が設けられ、そこには燭台と机と臨在のパンがありました。それが聖所と呼ばれる場所です。

聖書(ヘブル人への手紙 9章2節)

バイブルナビによると、

「週一度の安息日に祭司が幕屋の聖所に入り、焼き立ての12個のパンを小さな机に起く。
このパンは臨在のパンと呼ばれ、神が民の間に住まわれるだけでなく、
ご愛をもって民の物質的な必要を満たしてくれることを表わしている。
取り代えられた後のパンは、奉仕に当たっている祭司だけが食べる物であった。」

この臨在のパンは祭司だけが食べることができました。

一般の者はだれも、聖なるものを食べてはならない。祭司の居留者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。

聖書(レビ 22:10)

しかし、ダビデはこのパンを食べました。
これは、律法違反です。

祭司アヒメレクも、律法に背いてダビデに与えました。

これは正しいことでしょうか?
律法的にはダメです。

下手したら、死にます。
でも、ダビデは死にません。

なぜでしょうか?

同じように、律法に背いて、神様から罰を受けた人物がいます。

サウルです。

サウルは、祭司しか捧げることのできない、全焼のささげ物を献げます。

11 サムエルは言った。「あなたは、何ということをしたのか。」サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。
12 今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向かって下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」
13 サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。
14 しかし、今や、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。主があなたに命じられたことを、あなたが守らなかったからだ。」

聖書(1サムエル 13:11-14)

このことがきっかけで、サウルは王位を剥奪され、ダビデが選ばれます。

ん?なんか変じゃないですか?

ダビデもサウルも律法を破りました。

しかし、ダビデは許され、サウルは裁かれました。

なぜでしょうか?

ここが今日のポイントです。
彼ら2人の何かが違ったのです。

ダビデとサウル

ヒントになる二つの箇所を見ていきます。

サウルはこの大失敗の後も、失敗を続けます。
神様から、アマレク人を徹底的に滅ぼしなさいと言われたのにも関わらず、自分のために利用できる王様や家畜などを取っておきました。

8 アマレク人の王アガグを生け捕りにし、その民のすべてを剣の刃で聖絶した。
9 サウルとその兵たちは、アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである。

聖書(1サムエル 15:8-11)

そこで神様はこう言いました。

10 主のことばがサムエルに臨んだ。
11 「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。

神様はサウルの何を見ていたのでしょうか?

一方、ダビデは神様にこう言われます。

主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

聖書(1サムエル16:7)

神様は、ダビデの何を見ておられたのでしょうか?

そうです。
心です。

これが今日、神様が私たちに語られていることです。
私たちがこのコロナ危機によって、明らかにされていることは、神様の前にある私たちの真実な心。

本当に心から神様を愛し、神様を礼拝し、神様の言葉に従おうとしているのか?
それとも、形式にこだわり、仮面を被り、人間の声に従い、状況に右往左往しているのか?

サウルは、いつも人の声や状況に従っていました。
神様は、これを「偶像礼拝」と言いました。

22 サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

聖書(1サムエル15:22-23)

ダビデの心はいつも神様に向いていました。
それは、彼の詩篇を読めばわかります。

ダビデもサウルと同じように、いやそれ以上に失敗した男です。
しかし、彼はいつも神様に心を向けたので、罪が赦されたのです。

コロナウイルス拡大による緊急事態宣言により、多くの教会の礼拝がインターネットになりました。
インターネットの礼拝は、今まで以上に私たちの心のあり方が問われます。

何かをしながら、礼拝をしてしまうこともあります。
気が散って、集中できないこともあります。
忘れてて、スキップすることもあります。

だからこそ、自発的な心からの献身を伴う礼拝が求められるのです。

実は、このダビデの行為に対して、イエス様が引用する場面があります。

1 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。
2 するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、
4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。

聖書(マタイ12:1-4)

安息日に、穂を摘んで食べたイエス様の弟子たちに対して、律法学者は責めたのです。
それは律法違反だと。

しかし、イエス様は、ダビデのことを引用し、神を愛する心が大事だということを教えられます。

7 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。
8 人の子は安息日の主です。」

聖書(マタイ 12:7-8)

安息日違反を神様に指摘すること自体がどれだけ見当違いかがわかるでしょうか?

ダビデも律法違反をしている

しかし、ここでメッセージは終わりません。
大切なことを見逃すからです。

このまま終わると、どうしても解決されないことが一つあります。
それは、律法違反ということです。

律法違反が、心のあり方でどうにでもなるなら、厳格な律法は必要ないのではないでしょうか?

神様は次のようにいうでしょうか?
「律法?ちょっと守れなくてもいいよいいよ、それはあくまで形式的なものだから」

ダビデは律法を破りました。
祭司アヒメレクも律法を破りました。

その責任は、空中に浮いて消えたのではありません。

この違反の責任は、イエスキリストが十字架上で一身に背負って、代わりに罰を受けたのです。

ダビデの罪も、祭司アヒメレクの罪も、イエス様の弟子たちの罪も、律法学者やパリサイ人の罪も。

もちろん、私たちの罪も。
私たちはユダヤ人のように律法を守る必要はありません。
しかし、律法がなくても、罪を犯していることは明らかです。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。

聖書(ガラテヤ3:13)

ダビデも、祭司アヒメレクも、サウルも、私たちも、みんな何かしらの律法違反(罪)を犯しています。

だからこそ、心から悔い改め、心から神様を求める愛が必要なのです。

終わりに

今日、もう一度、自分の心に手を置いて、考えてみましょう。
私たちの心はどういう状態か。

形式が大事ではありません。
しかし、真実な愛から来る心は、良い習慣、良い態度、良い形式を生み出すのも事実です。

イエス様は、私たちの「心」を求めておられます。

7 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』

聖書(マタイ 12:7)
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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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