むなしさを感じる時、それはチャンス「禁断のパンを食べたダビデ」聖書(1サムエル 21:1-9)

20200503
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1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」
2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。
3 今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」
4 祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」
5 ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」
6 祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日主の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。
7 ──その日、そこにはサウルのしもべの一人が主の前に引き止められていた。その名はドエグといい、エドム人で、サウルの牧者たちの長であった──
8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまりに急だったので。」
9 祭司は言った。「ご覧ください。あなたがエラの谷で討ち取ったペリシテ人ゴリヤテの剣が、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それにまさるものはありません。私に下さい。」

聖書(1サムエル 21:1-9)

はじめに

お坊さんが答える悩み相談サイトにこのような投稿がありました。
人生がむなしいです。
初めて質問させていただきます。
私は現在、病気療養中で無職です。病気(精神疾患)は20年以上患っています。
ここ2~3年は病気の状態が悪く仕事をしていません。家族や友人もおらず相談相手もお医者さんだけです。
これから先もこのままの状態が続くかと想像すると、むなしくなります。少しでも気持ちを軽くするには、どのような心の持ち方で生きていけば良いのでしょうか?
よろしくお願いいたします。

それに対するお坊さんの答えは「頑張れている今に拍手」というとても優しい配慮あるものでした。

最後このように締めています。
先のことが心配なのは当然です。だからこそ、今、生きているこの瞬間を実感していただきたいと思うのです。

もちろん、今を精一杯生きれば、紛らわすことができるかもしれない。
でも、根本的などうも、解決策は提示できていないように思いました。

聖書は解決策を提示しています。
今日は、ダビデの箇所から、その真理の答えを学んでいきましょう。

キリストに出会う前の私たち

今日は、前回と同じ箇所からメッセージをしますが、違う切り口です。
三つのポイントでお話しします。

ダビデの行動に隠された3つの真理です。

逃亡中に祭司のもとを訪れたダビデは、
①キリストに出会う前の私たち
を表しています。

ダビデは、サウルに命を狙われ、祭司アヒメレクのところを訪れます。

1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」

聖書(1サムエル 21:1)

なぜ、ダビデは祭司アヒメレクと幕屋を訪れたのでしょうか?

空腹だったから。
確かに。

でも、食べ物なら、別に他の町でも良いのでは?

ヒントは、幕屋です。

幕屋は、神の臨在を表わす場所。

つまり、ダビデは神の導きを求めて来たのです。

ひとりで神のもとへ訪れるダビデ。
彼は、サウルに追われ、不安、恐れ、怒りなどで心が満ちていたでしょう。

この時のダビデは「うつ状態」ではなかったかと言う聖書学者もいます。
その心情をダビデは詩篇34篇に書いています。

6 この苦しむ者が呼ぶと 主は聞かれ、すべての苦難から救ってくださった。
7 主の使いは 主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される。

聖書(詩篇 34:6-7)

1節には「1人」と書いています。
実際に、ダビデには何人か連れのものがいたはずですが、これは彼の人生の孤独を表しています。
周りに人がいても、私たちは、1人で神の前に立たなければいけません。

多くの方の救いを証を聞いても、そうですが、
人生の危機が、私たちをキリストに導くことが多いです。

教会は「弱い奴の集まりだろ?」
その通り。
しかし、真理はみんな弱い。
教会に集まるのは、「自分が弱い」と幾分認めた人たち。

ルカの福音書に、放蕩息子の例えが出てきます。

何もかも与えられている状態に満足できず、父親に生前贈与を要求し、彼は外国で好き勝手に生きます。

しかし、何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、食べることにも困り始めました。
彼は豚の世話をし、豚の餌の豆すらも食べられず、人生のどん底を経験します。
その時になって、彼は父親のことを思い出し、家に戻って父親に謝ろう。と決断するのです。

今のコロナ危機ですが、もちろんこれは良いことでありません。
しかし、私はこの危機が日本人の心を神に向けるチャンスになるように祈っています。

キリストに出会って生き返る私たち

祭司のパンを食べたダビデは
②キリストに出会って生き返る私たち
を表しています。

3 今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」
4 祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」

聖書(1サムエル 21:3-4)

臨在のパンは、幕屋の聖所にあるパンです。
これは、荒野のマナを表しています。
12個あるのは、12部族がマナによって生かされた。
マナは天から降るパンで、40年間毎朝与えられました。

これは、奇跡です。
しかし、偶然ではなく、神のことばによって、それは降りました。

主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。

聖書(出エジプト16:4)

これは、民がパンで生きたというよりも、神のことばによって生かされているということです。

神様は、なんと言われたでしょうか?

それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

聖書(申命記 8:3)

話をダビデに戻しましょう。
ダビデが食べたパンは、祭司しか食べられないパン。
でも、ダビデはそれを食べて生きた。

本当は、律法違反なので、死に値します。
でも、死ななかった。

なぜ?

神の憐み。

これは、私たちとキリストの関係を表しています。

本来、食べることのできないパンを食べ、私たちは生きるのです。

それは、イエス様です。

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

聖書(ヨハネ 6:35)

私たちは本来、神に近づくことができない罪人です。
しかし、キリストというパンを食べることによって、私たちは罪が赦され、生きることができるということです。

ダビデがパンを食べる時、許可したのは誰?
アヒメレク。
祭司の憐みによって、食べた。

私たちも、大祭司イエス様のとりなしによって、神に赦されています。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

聖書(ローマ 8:34)

キリストに出会った後の私たち

ゴリヤテの剣を携え幕屋を出るダビデは
③キリストに出会った後の私たち
を表しています。

8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまりに急だったので。」
9 祭司は言った。「ご覧ください。あなたがエラの谷で討ち取ったペリシテ人ゴリヤテの剣が、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それにまさるものはありません。私に下さい。」

聖書(1サムエル 21:8-9)

祭司のパンを食べて、生き返ったダビデ。
しかし、彼の状況はちっとも変わっていませんでした。

この後、彼は10年近く、サウルからの逃亡生活を送ります。

その間、虚しさ、孤独、恐れ、怒り、様々な困難を通ります。

同じように、イエスキリストに出会い、救いを受けても私たちの人生の全ての問題が変わるわけではないのです。

しかし、大きく変わることがあります。
それは、私たちがイエス様のみことばによって、日々生きるものへと変えられたということです。

聖書のみことばはいのちのパンです。
しかし、聖書には剣とも比喩されています。

救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

聖書(エペソ 6:17)

イエス様が悪魔の誘惑に打ち勝ったのは、みことばの剣です。

これが、ゴリヤテの剣の表わすことです。

これから、ダビデはみことばによって勝利していくということ。

実際、ダビデはみことばによってゴリヤテに勝利した。

この後のダビデは、常に神のことばを伺うようになります。

10 そしてダビデは言った。「イスラエルの神、主よ。しもべは、サウルがケイラに来て、私のことで、この町を破壊しようとしていることを確かに聞きました。
11 ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか。サウルは、しもべが聞いたとおり下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ。どうか、しもべにお告げください。」主は言われた。「彼は下って来る。」

聖書(1サムエル 23:10-11)

常に神のことばを聞き、それに従えば上手くいきます。

まとめます。

  • ①キリストに出会う前の私たち
  • ②キリストに出会って生き返る私たち
  • ③キリストに出会った後の私たち

問題を経験した時、神を求めることが大事です。
イエス様だけが私たちを生き返らせるいのちです。
そして、私たちはイエス様のみことばによって、問題に打ち勝つことができるのです。

1963年、朝日新聞社が1,000万円懸賞小説の公募を行いました。この公募に投稿し見事入選した作品が小説『氷点』です。この小説は後に大ベストセラーになりました。この『氷点』の著書は三浦綾子さんです。三浦さんは結核や脊椎カリエスなど度重なる病魔に苦しみながら77才で亡くなるまでクリスチャン作家として多くの著作を発表してきました。三浦さんは自分がクリスチャンになった時のことをこう語っています。

「私は虚無的な日々を送っていた。だがそんな生き方をもし続けていたら一体私の一生はどんな一生になったことだろう。こんないい加減なその日暮らしの生活に何の実りがあったろう。かけがえのないいのちをいたずらに滅ぼしてしまったに違いない。この私自身の心のきたなさ、醜さのために、罪のために、イエスは十字架にかけられたと知った時、私の生活は変わったのだ。」

三浦綾子さんは、キリストに出会いました。
そして、生きたのです。

彼女は、いつもみことばを小説に入れていました。
みことばを伝えていました。

彼女の小説で、イエス様に出会った人は数えきれません。

ダビデも同じです。
虚しさを経験した彼のもとには、同じ問題を抱えた人たちが大勢集まってくるのです。

そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。

聖書(1サムエル 22:2)

そして、彼はイスラエルの王として、その人々を勝利に導きます。
ゴリアテの剣、そうです。

神のみことばです。

みことばによって、彼は勝利していくのです。

終わりに

  • ①キリストに出会う前の私たち
  • ②キリストに出会って生き返る私たち
  • ③キリストに出会った後の私たち

問題を経験した時、神を求めることが大事です。
イエス様だけが私たちを生き返らせるいのちです。
そして、私たちはイエス様のみことばによって、問題に打ち勝つことができるのです。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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