あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。
聖書(2コリント13:5)
はじめに
先週から、新しいシリーズを始めています。
その名も「救いの確信シリーズ」です。
クリスチャンになるときに、つまづくポイントの一つが、
「私なんかがクリスチャンといってもいいのだろうか?」
「私なんかが洗礼を受けてもいいのだろうか?」
と言う自分に対する自信のなさです。
そこを乗り越えて、信仰を告白し、洗礼を受けたとします。
でも、クリスチャンになったからといって、信仰が確信に満ちるわけではありません。
当たり前ですよね。
だって、信じてみようと、一歩踏み出しただけですから。
クリスチャンになったばかりの人はもちろん、すでにクリスチャンになって大分経つ人も、ぜひ、このシリーズを通して、信仰の確信を持ってほしいと思います。
具体的、次の10個の事柄に対して、「確信」を持つことが理想です。
- ①あなたはイエス様を信じていますか?
- ②イエス・キリストが今あなたの中におられますか?
- ③あなたは罪を赦されたと確信していますか?
- ④あなたは神様の子となりましたか?
- ⑤あなたは永遠の命を得ましたか?
- ⑥あなたは救われましたか。
- ⑦今晩あなたが死ぬとしたら天国へ行ける確信がありますか?
- ⑧あなたは聖霊を受けましたか?
- ⑨あなたは生まれ変わりましたか?
- ⑩滅びの審判を受けない確信がありますか?
これらのことに対する確信が強まれば、どんないいことがあるでしょうか?
試練が来ても揺らがなくなります。
サタンの誘惑を御言葉で退けることができるようになります。
誰かを励まし、導けるようになります。
今日のテーマは、「②イエス・キリストが今あなたの中におられますか?」です。
皆さんはどうですか?
確信があるでしょうか?
早速、今日の聖書箇所を見てきましょう。
あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。
聖書(2コリント13:5)
ギリシャ語原文では「自分自身を」に当たる語が文頭にあり、語順の倒置による強調がなされています。
日本語で言えば、「試しなさい、自分自身を!」ということです。
これによって、あなたがたが「ためす」(ドキマゼテ) べき人が、自分自身であることを強く語ります。
これは3節で、コリント教会の聖徒たちがパウロに「使徒としての証拠」(ドキメー)を求めたことと対比されます。
他の人をさばいたり、他の人の言動がクリスチャンにふさわしいかにクレームをする人がいます。
なぜか、クリスチャンに多いです。
パウロは「あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか」と言います。
この質問は、皮肉です。
「あなたはキリストを信じていますよね?なら、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられるでしょ?」
あなたのうちに「イエス・キリストがおられる」なら、
人をさばくことなんてできないはずですよね?
教会にこんなに問題が起きていないはずですよね?
ということです。
あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。
聖書(2コリント13:5)
最後にまた痛烈な皮肉です。
違うなら、あなたは「不適格」(アドキモイ) 、つまり救われてないじゃないか。
ここから私たちはどんなメッセージを受け取ることができるでしょうか?
まず、他の人や、周りのことで、評論家のように意見を言う前に、自分自身のうちに、「イエス・キリストがおられる」ことを自覚しているか?と言うことです。
つまり、確信を持って生きているか?もし、確信があるなら、人をさばいたり、問題を起こしたりする訳が無いということです。
もちろん、クリスチャンであっても人をさばいたり、問題を起こしたりすることもあります。
でも、本当に「イエス・キリストがおられる」人は、自分の言動が自制されていきます。
だって、聖なる神がうちにおられるんですから。
あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。
聖書(2コリント13:5)
「吟味する(ヘアゥトゥースドキマゼテ)」は「自ら証明してみなさい」という意味です。
皆さんは、どうやったら「イエス・キリストが今あなたの中におられる」ことを自ら証明できますか?
確信を持つには、証明できなくてはなりません。
私たちが、何を持って証明するのか、それはいつだってみことばです。
聖書に書かれていることが根拠で、それを信じるのです。
父なる神
だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。
聖書(1ヨハネ 4:15)
イエス・キリスト
この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
聖書(コロサイ1:27)
聖霊
あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。
聖書(1コリント3:16)
専門用語で、聖霊の内在と言いますね。
ただ、神は三位一体の神なので、私のうちに、イエス様がおられると言っても全く問題ありません。
でも、ここで問題が生まれます。
聖書に書いていることはわかった。それを信じる。
でも、
どうやって「キリストが今私の中におられる」ことを確信できるのか?
ということです。
みことばから証明することと、みことばを確信していることは違うからです。
前回のメッセージの復習をしましょう。
信仰は、0%か0%じゃないかの二択です。
確信は、1%~100%の間の幅であって、人によって違います。
つまり、あなたが、
「キリストが今私の中におられる」ことを信じていても、確信しているとは限らないということですね。
どうやって「キリストが今私の中におられる」ことを確信できるのか?
それは、あなたの信仰生活において「キリストとの親しい交わりがあるか?」です。
これが今日のポイントです。
もちろん、試練を何度も乗り越えて、「キリストが今私の中におられる」ことを確信することもあります。
長いクリスチャン生活を通して、振り返ったら「キリストが今私の中におられる」ことを確信できる場合もあります。
でも、今日は「キリストとの親しい交わりがあるか?」どうかに絞って、自分を吟味しましょう。
親しい交わりがあるか?とは、
キリストを体験しているか?
イエス様と交わっているか?
話してるか?声を聞いているか?
時間を過ごしてるか?
ということです。
これらのことがピンとこない場合は、体験が不足している可能性があります。
イエス様は生きているので、交わることができます。
え?声が聞こえるのか?俺が聞いたことないぞ…
誰もが声を聞くわけではありません。
でも声として聞く人もいます。
僕は心の声のように、聞こえたり、神様の思いを感じたりします。
そんなこと可能なのか?と思いますよね?
可能です。
神は霊です。
私たちも霊を持っています。
この霊によるコミュニケーションが神と交わるということです。
創世記1章でアダムは神の声を聞いて、神と親しく交わっていました。
しかし、人は罪を犯し、霊が死にました。
その結果、神の声が聞こえず、神との交わりが断絶したのです。
なので、「神って何?」「いるの?いないの?」と人間は神がわからなくなったんです。
「神がいない」のではなく、人間が神の声を聞けなくなり、神を求めても見つけられなくなったんです。
その結果、神は人として、地上に来られ、イエスさまは肉体を持って交わられました。
イエス様は、十字架にかかり、罪を処罰され、復活されました。
そのイエスを信じれば、人には神の霊、聖霊が与えられ、永遠のいのちを持ちます。
つまり、罪によって死んでいた霊が生き返り、神と再び交わることができるようなったのです。
なので、クリスチャンは、神と交わることができるのです。
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
聖書(黙示録3:20)
この箇所は、ノンクリスチャンへの伝道に用いられることがあります。
でも、本来これはラオデキヤの教会の聖徒たちに告げられたメッセージです。
つまり、キリストが住まわれるクリスチャンでも、キリストを外に追い出している霊的状態があることを示しているのです。
これは、もしかすると、ラオデキヤの教会の中に、文字通り、本当は救われていない人がいたことを表していたかもしれません。
救われていても、キリストと交わらない、キリストに無関心のクリスチャンを表した比喩かもしれません。
いずれにせよ、信じたものには、キリストがうちにおられることは真理であり、事実です。
あなたがキリストを信じていれば、キリストがうちにおられます。
ただ、ここで大切なことは、あなたたのふだんの生活のなかで、キリストと時間を過ごしていますか?ということです。
親しく交わっていますか?
祈っていますか?祈りは宗教的、義務的、呪文になっていませんか?
親しく交わるとは、歩きながら、仕事しながら、家事をしながら、イエス様と会話したり、イエス様のことを考えることです。
キリストとの交わりがない場合、ほとんどの場合、その人はその状態に気づきません。
無感覚になっています。
キリストがあなたの心の扉をノックしている音も聞こえないんです。
これは自分ではわからないものです。
でも「なんか変」みたいな感覚はあります。
何か、人生の歯車が噛み合わない。
まずまず健康で幸せなんだけど、何か心がモヤモヤする。
何か霊的に暗い。霊的に力を感じない。
礼拝でも心が定まらない。
祈っても、あまり心が動かない。
神様を近くに感じない。
「何か変」だな…
もしそうなら、あなたはキリストとの交わりが不足している可能性があります。
交わりが不足すると、あるいは交わりの感覚、体験がないと、確信が強くなりません。
じゃあ、どうすれば、キリストとの親しい交わりを持つことができるのでしょうか?
それは、
「神の臨在に触れる」
ことです。
「神の臨在に触れる」と、いかに自分の心が神から離れていたかわかるものです。
例えば、僕自身も、なんか信仰生活が変だなあと感じることがあります。
そのとき、デボーションをしても、何か集中できない、神様を感じないと思うことがあります。
そのとき、僕はどうするのか?そのまま諦めるのか?
違います。
一人で賛美を歌います。
よく祈られて撮影されたYouTubeの賛美をひたすら歌います。
賛美を歌っていくと、神様の前に心が開かれていくのがわかるようになります。
その中で、祈りに導かれます。
神の臨在を感じられるようになります。
涙が出たり、内側に溜まっている重荷やつっかえていたものが吐き出されます。
罪の告白に導かれたり、聖霊がデボーションの主導権を握られます。
霊の中で交わっているという感覚を取り戻すのです。
そのとき、気づくのです。
「ああ、自分は神様から離れていたんだ」と。
離れていたとは、信仰を捨てたとかじゃないですよ。
親しい交わりを持ててなかったな、ということです。
これを聞いて、イヤイヤ、自分はそんな体験したことないし、そんなタイプじゃないです。
と言いたくなりますか?
涙を流すとか、感情的に恍惚状態(こうこつ)になるということじゃないです。
大事なことは、祈ったり、賛美をしたり、神の臨在を求めていくことです。
ただ、外を歩きながら、会話するだけじゃダメですか?
それでもいいです。
でも、神は霊です。聖霊も霊です。霊の交わりは何かを体験することは非常に大事です。
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
聖書(ヨハネ4:24)
神は霊です。
だからこそ、僕は、皆さんに御霊による礼拝を体験してほしいと願っています。
ガーデンチャーチは、ビジネスマンに宣教します。
ビジネスマンがとっつきやすいようなメッセージを語り、雰囲気にも気をつけます。
クリスチャン用語はあまり使わないように配慮したり、宗教的にならないように気をつけます。
でも、ガーデンチャーチは、ビジネスセミナーでも、聖書のお勉強サークルでもありません。
ガーデンチャーチは、生けるイエス・キリストの教会です。
神の臨在を強く感じる礼拝。
人生を変える聖書の真理が語られ、魂が喜ぶ交わりがある場所なのです。
祈っているのは、このガーデンチャーチに入った瞬間、クリスチャンでもノンクリスチャンでも、神の臨在を感じて、霊が生き返るような体験をするようになることです。
神の臨在が何かわからない、興味もない人が、神の臨在を感じて、罪が示され、キリストにエンカウンター、出会ってしまう教会です。
このYouTubeもそうです。
臨在が画面越しに伝わる礼拝でありたいと祈っています。
そのためには、私たちが、キリストとの交わりを深くもつ必要があるのです。
終わりに
「キリストが今私の中におられる」ことの聖書的根拠
父なる神
だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。
聖書(1ヨハネ 4:15)
イエス・キリスト
この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
聖書(コロサイ1:27)
聖霊
あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。
聖書(1コリント3:16)
どうやって「キリストが今私の中におられる」ことを確信できるのか?
それは、あなたの信仰生活において「キリストとの親しい交わりがあるか?」です。
祈る時間や聖書を読む時間で測られることもあるでしょう。
また、心の状態で測ることもできます。
礼拝でも心が定まらない。
祈っても、あまり心が動かない。
神様を近くに感じない。
「何か変」だな…
そんな時は、神に思いを向ける。神の臨在を強く求めましょう。
親しい交わり、霊の交わりを体験するなら、「キリストとの親しい交わり」を体験し、関係を築いていくことができるのです。