【人生を変える聖書のメッセージ#14】信仰は旅である ⑥ 祭壇を築く「どんな時でも神様を礼拝できますか?」

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はじめに

マイケル・フェルプスをご存知でしょうか?引退したアメリカの水泳選手で、オリンピックメダル獲得数史上1位の記録も打ち立て史上最強のスイマーとも言われています。しかし、このマイケル・フェルプスは、壮絶な人生を送っていました。9歳の時に、両親が離婚。自分は、親に捨てられたと思い傷つきました。すでに、オリンピックの英雄となってから飲酒運転で、2回逮捕され、薬物にも手を出し、自殺も考えたと言います。

そんな、マイケル・フェルプスはある本によって人生が変わったと言います。それは、友人であるフットボール選手から勧められて施設内で繰り返し読んだ、リック・ウォレン牧師の【人生を導く5つの目的(The Purpose Driven Life)】でした。彼は、この本によって、「自分が存在する意義を神から学んだ」そうです。

 真の神様に出会うならば、私たちは人生の目的を知ることができます。 なぜなら、神様が私たちを創造し、一人一人に命を与えられたからです。私たちは、「Fatih is a Journey 信仰は旅である」と言うメッセージシリーズから学んでいますが、信仰の旅で一番大切なことは、私たちが、神様と共に歩んで歩んでいるかと言うことです。それは、私たちの人生のもっとも大切な目的の一つです。

今日も、前回に引き続き、アブラハムの物語から、「信仰は旅である ⑥ 祭壇を築く」というタイトルで、共に聖書から主の御言葉を味わって参りましょう。

どんなときでも礼拝をしたアブラハム

アブラハムは主と共に歩んだと言えるでしょうか?彼の旅を見ると、アブラハムが主と共に歩んだと言える証拠があります。それはなんでしょうか?

祭壇です。祭壇は何を表すのでしょうか?祭壇は、神への礼拝を表します。

そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。 その所でアブラムは、 【主】の御名によって祈った。

聖書(創世記13:4)


聖書には、「主の御名によって祈る」という表現が出て来ますが、これは礼拝を表しています。

創世記は、12章から25章まで、実に14章もアブラハムの人生を記していますが、その中で、アブラハムは、計4回祭壇を築きました。それぞれが、彼の人生の節目節目に、築かれた祭壇です。アブラハムは、どんな時でも、どんなことが人生に起こっても、礼拝することを最優先にしました。そして、これは今日のメッセージのポイントです。

①何も見えない時でも

6 アブラムはその地を通って行き、 シェケムの場、 モレの樫の木のところまで来た。 当時、 その地にはカナン人がいた。
7 そのころ、 【主】がアブラムに現れ、 そして「あなたの子孫に、 わたしはこの地を与える」と仰せられた。 アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、 そこに祭壇を築いた。

聖書(創世記12:6-7)


創世記の12章1-3節で「わたしが示す地へ行きなさい。」そのように語られたアブラハム。その主の御言葉の通りに、カナンの地に行ったアブラハムは、驚いたことでしょう。なぜでしょうか?それは、御言葉の約束と現実が違うからです。なぜなら、その約束の地には、すでに「カナン人がいた」からです。しかし、アブラハムは、 約束の成就が何も見えない時にも、約束の御言葉を信じ、祭壇を築き、礼拝を捧げました。 

②失敗した時でも

彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。 西にはベテル、 東にはアイがあった。 彼は【主】のため、 そこに祭壇を築き、 【主】の御名によって祈った。

聖書(創世記12:8)


7節に続いて、8節で、アブラハムは二つ目の祭壇を築きます。アブラハムがこのベテルの付近に祭壇を築いた理由は書かれていませんが、その後、この同じ祭壇でアブラハムはもう一度礼拝します。それが、今日の聖書箇所です。

3 彼はネゲブから旅を続けて、 ベテルまで、 すなわち、 ベテルとアイの間で、 初めに天幕を張った所まで来た。
4 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。 その所でアブラムは、 【主】の御名によって祈った。

聖書(創世記13:3-4)


前回のメッセージの12章のストーリーを振り返ると、約束の地に着いたアブラハムは、ききんによりエジプトに遠回りしました。そして、12章では、特に理由が書いてなかった祭壇が、エジプトに遠回りした後の13章では特別な祭壇へと変わりました。アブラハムは、 罪を犯しても、悔い改め、祭壇で礼拝を捧げました。 

③新しい場所でも

17 立って、 その地を縦と横に歩き回りなさい。 わたしがあなたに、 その地を与えるのだから。 」
18 そこで、 アブラムは天幕を移して、 ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。 そして、 そこに【主】のための祭壇を築いた。

聖書(創世記13:17-18)


彼は、またまた引越しをしました。それは、甥のロトがソドムとゴモラという町に行き、アブラハムも天幕を移動させたからです。アブラハムは、 新しい場所でも、今までのように祭壇を築き、礼拝を捧げました。 

④試練のただ中でも

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、 アブラハムはその所に祭壇を築いた。 そうしてたきぎを並べ、 自分の子イサクを縛り、 祭壇の上のたきぎの上に置いた。

聖書(創世記22:9)


最後の祭壇は、今までとはちょっと違う状況でした。それは、神様は、やっと生まれた約束の子、イサクを祭壇で捧げるようにと命じられたからです。

神は仰せられた。 「あなたの子、 あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、 全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。 」

聖書(創世記22:2)


この命令は、理解することが困難なものでした。「神様、なぜ、やっと賜った息子を殺さないといけないのですか?」
「あなたの子孫を地のちりのようにならせるという約束はどうなるのですか?」しかし、アブラハムがこのような言葉を言ったという記述は一切ありません。 この理解できない試練の中にあっても、主を見上げ、礼拝することを選んだアブラハムは祭壇を築きます。 5節を見ると、アブラハムにとって、イサクを捧げる祭壇を築くことは、やはり礼拝であったことが書かれています。

それでアブラハムは若い者たちに、 「あなたがたは、 ろばといっしょに、 ここに残っていなさい。 私と子どもとはあそこに行き、 礼拝をして、 あなたがたのところに戻って来る」と言った。

聖書(創世記22:5)

以上のように、アブラハムは合計四回祭壇を築きました。これらの箇所の共通点は何でしょうか?それは、 どんな状況であっても、神の御言葉を信じて礼拝するということをアブラハムが選択した ということです。

聖書を読めば、このように「どんな時でも、どんなことが人生に起こっても、礼拝した信仰者たち」がたくさん出てきます。

どんな時でも礼拝した聖書の登場人物

見ずに信じたマリヤ

何も見えない時でも礼拝をした、イエス様の母であるマリヤは、天使によって「あなたは男の子を身ごもる。その子は、聖なる者、 神の子と呼ばれます。神の子と呼ばれる」と言われたとき、まだ結婚もしていなく、処女でした。しかし、彼女は、神の約束の御言葉を信じ主を礼拝します。

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、 何と幸いなことでしょう。」マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、 わが救い主なる神を喜びたたえます。

聖書(ルカの福音書 1:45-47)

失敗を悔い改め礼拝したダビデ

失敗した時に神様を礼拝することを選んだダビデは王になった後に、不倫と殺人という罪を犯しました。預言者ナタンによって、罪を明らかにされ、ダビデは、悔い改めます。しかし、罪の代価としてダビデの子供が病気になり死んでしまいます。その後、彼が真っ先にしたことは礼拝でした。

19 しかしダビデは、 家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、 子どもが死んだことを悟った。 それでダビデは家来たちに言った。 「子どもは死んだのか。 」彼らは言った。 「なくなられました。 」
20 するとダビデは地から起き上がり、 からだを洗って身に油を塗り、 着物を着替えて、 【主】の宮に入り、 礼拝をしてから、 自分の家へ帰った。 そして食事の用意をさせて、 食事をとった。

聖書(第二サムエル記12:19-20)

異国で礼拝したダニエル

ダニエルは、若い時に異国バビロンに連れて行かれました。しかし、彼は、偶像のはびこる場所に置いても、主を礼拝することをやめませんでした。

そのとき、 夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示されたので、 ダニエルは天の神をほめたたえた。

聖書(ダニエル書2:19)

ダニエルは、 その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。–彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。 –彼は、 いつものように、 日に三度、 ひざまずき、 彼の神の前に祈り、 感謝していた。

聖書(ダニエル書6:10 )

牢獄の中で礼拝したパウロとシラス

パウロとシラスは、イエス様の御名によって悪霊を追い出していましたが、人々は彼らを迫害し、牢獄に入れました。しかも、むちで何度も打ってから、いつ出れるかもわからない状態です。その状況で、彼らは、主を礼拝しました。

24 この命令を受けた看守は、 ふたりを奥の牢に入れ、 足に足かせを掛けた。
25 真夜中ごろ、 パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、 ほかの囚人たちも聞き入っていた。

聖書(使徒の働き16:24-25)

その後何が起こったでしょうか?

26 ところが突然、 大地震が起こって、 獄舎の土台が揺れ動き、 たちまちとびらが全部
あいて、 みなの鎖が解けてしまった。

聖書(使徒の働き 16:26)

聖書を読めば、このように「どんな時でも、どんなことが人生に起こっても、礼拝した信仰者たち」がたくさん出てきます。私たちの礼拝の心は、私たちの持っている力や、他の人からの叱咤激励、意志による決断力によって生まれるものではありません。私たちの礼拝の心は、 イエス様の福音の力とその恵みによって内側から溢れ出てくるものなのです。 

アブラハムは祭壇を4回築きました。その全てに、いけにえが捧げられました。アブラハムがイサクを捧げた場面を思い出してください。あそこは、私たちの礼拝には、命の犠牲が必要であることを表しています。なぜなら、罪深い人間は、きよい神に礼拝を捧げることはできないからです。罪が邪魔してしまうのです。しかし、神様は、御子イエスキリストを遣わし、私たちの罪のために十字架に捧げられました。まるで、祭壇で焼かれる全焼の子羊のように。

聖書は、はっきりとそのことを伝えています。

その翌日、 ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。 「見よ、 世の罪を取り除く神の小羊。

聖書(ヨハネの福音書1:29)


実際に、神様は、イサクでなく、子羊を用意されました。

アブラハムが目を上げて見ると、 見よ、 角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。 アブラハムは行って、 その雄羊を取り、 それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

聖書(創世記 22:13 )

私たちの礼拝は、神の御子イエス・キリストのいのちの犠牲の上に成り立っている尊いものなのです。手に釘を刺され、心臓に水が溜まるほどのキリストの苦しみと、尊い血潮が流されて、初めて、私たち罪びとは神の前に出ることができるのです。つまり、私たちの礼拝は、「よし、礼拝しよう」と気分や、週に一回教会で義務感で捧げるものでもなく、頑張って無理して捧げるものでもありません。私たちの罪のために死なれたイエス様の愛。三日後に罪を打ち破り、よみがえられたイエス様の勝利の力。救われた恵み、私たちと住まわれる聖霊の喜び。それらが、内側から溢れ出て、私たちは礼拝へと導かれていくのです。

まとめ

私たちは、どんな時でも主を礼拝しているでしょうか?

今日、もう一度、自分の心を主に探ってもらいましょう。私たちの礼拝に内側からの喜びがあるでしょうか?私たちの礼拝には、イエス様の十字架の恵みが溢れているでしょうか?私たちの礼拝の祭壇には、イエス様の血潮が流されています。

【ブログで紹介した本】オススメです!私ももちろん読みました。
人生を導く5つの目的―自分らしく生きるための42章 / リック ウォレン (著),

読んでいただきありがとうございます!このメッセージはYoutubeでもご視聴いただけます。

この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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