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【人生を変える聖書のメッセージ#4】罪による葛藤の対処法「なぜ、罪を犯し続けてしまうのか?」ローマ人への手紙7章14-25節

約12分

はじめに

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。

聖書(ローマ人への手紙7:19)

これは使徒パウロの告白です。

あるクリスチャンは、この箇所は、「パウロは自分自身のことを言っているのではない」といい、「これは、まだ救われる前の人にパウロがなりきって「私」と語っている。」といいます。しかし、アウグスティヌス、ルター、カルバンがそう言ったように、私はこの告白を字義通り、使徒パウロ自身の告白、救われたクリスチャンを表すと信じます。

それは、私たちの信仰生活を見れば明らかです。キリストを救い主として受け入れて、罪が赦されたはずなのに、光の子として歩む人生が開かれたはずなのに、未だに罪や悪習慣に心を奪われ、失望してしまうことがあるのではないでしょうか?

ドイツ生まれの15世紀の神学者、トマス・ア・ケンピスはこう言いました。
「私は内ではあなたを望んではいるが、あなたを選び取ることができません。私は天にあるのものを切に望んでいるが、肉的なものと情欲に押しつぶされます。私は心の中にあるすべてのことから自由になろうとしますが、私はあらゆるものに縛られてしまいます。私は、不幸な人です。私は、心に潜んでいるものを求めてしまう自分自身と戦い、自分自身を嘆いています。私は苦しんでいます。天にあるものを心で求めていながら、祈る時であっても、肉的なものが私に対して挑んで来るからです。」

私も罪が示された時、主に悔い改めます。でも、また同じような問題を起こしてしまい、ある時は涙を流して悔い改めます。ある時、主にこう祈りました。「主よ、いつまで悔い改めし続けるのでしょうか?」そのような自分が情けなく、また主に申し訳なく感じることがあります。

このような葛藤に対して、私たちはどのように向き合っていけばよいのでしょうか?諦めればよいのでしょうか?罪の束縛に苦しみ続けるしかないのでしょうか?いつか解決される問題なのでしょうか?

今日は、この聖書箇所を通して、このキリスト者の葛藤にどう向き合っていけば良いのかを聖書から学びたいと思います。

本論

このキリスト者の葛藤について考えるにあたってローマ人への手紙7章14-25節の3つのキーワードに注目したいと思います。

① 律法 (ローマ人への手紙 7:14,16,22,25)

14節から25節まで、律法、ギリシャ語の原語の「ノモス」という単語は9回出てきます。この「ノモス」というギリシャ語は、それぞれ、文脈によって以下のように訳されています。

14 律法=モーセの律法
16 律法=モーセの律法
21 悪が宿っているという原理=罪の原理
22 神の律法=モーセの律法
23 異なった律法=罪の原理
23 心の律法=モーセの律法
23 罪の律法=罪の原理
25 神の律法=モーセの律法
25 罪の律法=罪の原理

まとめると、こういうことです。「私」つまり、パウロの中には異なる二つの律法があり、その二つの間でパウロは葛藤しているのです。その二つとは、神の律法(つまりモーセの律法)と罪の律法(つまり罪の原理)。パウロは、モーセの律法は罪を明らかにするために必要だと言います。

私はかつて律法なしに生きていましたが、 戒めが来たときに、 罪が生き、 私は死にました。

聖書(ローマ人への手紙7:9)


ある人が、自分は人殺しのような大きな犯罪はしていないので、罪は犯していない。というとします。しかしイエス様は、「兄弟に向かって腹を立てる者は、 だれでもさばきを受けなければなりません。」 と律法を通して、何が罪かを神の基準で示されました。つまり、律法や神の御言葉をイエス様のように正しく解釈する時、私たちは、「えっ、こんなことも?」というような自分の様々な言動が罪に定めれていくのです。「イエス様の恵み」ということを抜きにして、聖書を読むならば、人を罪に定め、自分を罪に定め、他人や自分の罪深さが明らかになり、絶望す危険性もあります。神の律法を守りたい。でも、守ろうとすればするほど、頑張れば頑張るほど、逆に罪が示されていく。それが、ここでパウロが「律法」というキーワードを通して伝えている葛藤です。

② 現在形 (ローマ人への手紙 7:14-25)

パウロは、直前のローマ人への手紙7章7-13節では過去形を使って、過去に自分が確かに罪人であったと証言しました。しかし、今回の箇所で、パウロは「です。しています。」と急に現在形で話し始めます。

14 私たちは、 律法が霊的なものであることを知っています。 しかし、 私は罪ある人間
であり、 売られて罪の下にある者です。
15 私には、 自分のしていることがわかりません。 私は自分がしたいと思うことをして
いるのではなく、 自分が憎むことを行っているからです。

s英所(ローマ人への手紙7:14-15)

これは、使徒パウロの現実的な葛藤を表しています。過去の葛藤ではなく、クリスチャンになった後もある葛藤です。あのパウロもそのような葛藤があったのです。パウロやペテロは、クリスチャンの内側の葛藤を「戦い」と表現し、この戦いが実際に起こる、現実に起こっていることを示しました。

あなたがたは、 私について先に見たこと、 また、 私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。

聖書(ピリピ人への手紙1:30)

信仰の戦いを勇敢に戦い、 永遠のいのちを獲得しなさい。 あなたはこのために召され、
また、 多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

聖書(テモテへの手紙第一 6:12)

愛する者たちよ。 あなたがたにお勧めします。 旅人であり寄留者であるあなたがたは、
たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

聖書(ペテロの手紙第一2:11)

つまり、クリスチャンになったから、すべての問題は解決したよ。罪ももうないよ。悪習慣も消え去ったよ。とは言わなかったのです。そのような、葛藤を経験し、パウロはより自分の中にある罪深さを知って行ったのです。パウロは最初、自分を選びの器、使徒と呼びました。しかし、晩年は自分は罪人の頭と言いました。

しかし、 主はこう言われた。 「行きなさい。 あの人はわたしの名を、 異邦人、 王たち、 イスラエルの子孫の前に運ぶ、 わたしの選びの器です。

聖書(使徒の働き 9:15)

ペテロにみわざをなして、 割礼を受けた者への使徒となさった方が、 私にもみわざをなして、 異邦人への使徒としてくださったのです。

聖書(ガラテヤ人への手紙2:8)

それは、 私たちに権利がなかったからではなく、 ただ私たちを見ならうようにと、 身をもってあなたがたに模範を示すためでした。

聖書(テサロニケ人への手紙第二 3:9 )

私は、 あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、 教会に仕える者となりました。 神のことばを余すところなく伝えるためです。

聖書(コロサイ人への手紙 1:25)

こういうわけで、 あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。

聖書(エペソ人への手紙 3:1)

すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、 この恵みが与えられたのは、 私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、

聖書(エペソ人への手紙 3:8)

「キリスト・イエスは、 罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、 まことであり、 そのまま受け入れるに値するものです。 私はその罪人のかしらです。

聖書(テモテへの手紙第一 1:15)

私は今や注ぎの供え物となります。 私が世を去る時はすでに来ました。

聖書(テモテへの手紙第二 4:6)

神学者であり、伝道者であり、使徒であるパウロでさえ、自分の中の罪を悟り、どんどん低くなっていきました。それは、人生を通した信仰の戦いの中で、自分の罪深さを知って行ったから、そして、主の恵みを知って行ったので、謙遜になっていきました。

ここまで、律法は罪を示し、キリスト者になった後も、現実的に罪の葛藤があることを見てきました。では、この箇所を通して聖書が私たちに語っていることは何でしょう?

それは「葛藤は救いの証である」ということです。もし、私たちが罪に対して大きな痛みと悲しみを感じるならば、それはキリストによって新しく生まれ変わった証拠なのです。もし、私たちが罪を犯しても大きな悲しみを感じないのなら、それは、救われる以前の姿です。何かがおかしいのです。なぜなら、私たちの中には、イエス様の霊、聖なる霊、聖霊様が住んでおられるからです。罪は犯してしまっても、そのことに葛藤し、悲しみ、主の御前で悔いるならば、それは神の側に立っているという証拠なのです。

イエス・キリストを主として受け入れ、洗礼を受けたからといって、罪が全くなくなるわけではありません。私たちはこの世にいる限りは、依然として罪の身体を持っており、不完全なものなのです。じゃあ、イエス様信じても何も変わらないのか?というとそんなことはありません。

「何も変わらない」ではなく、確かに変わりました。十字架は一度きり。確かに私たちの罪は十字架で処罰されたのです。しかし、それは私たちはが罪ない者となったのではありません。十字架の恵みの前で、自分の弱さを認め、神に拠り頼み、聖霊に導かれ、罪と戦い、信仰によって勝利する者とされたのです。そして、大きく変わったのが人生の方向です。今までは、罪の身体の行き着く滅びに向かっていたのが、今は命に向かっているのです。まだ、ゴールはしていません。完成はしていません。でも、ゴールは示されたのです。

最後のキーワードを見てみましょう。

③ 感謝(ローマ人への手紙7:25)

私たちの主イエス・キリストのゆえに、 ただ神に感謝します。 ですから、 この私は、 心では神の律法に仕え、 肉では罪の律法に仕えているのです。

聖書(ローマ人への手紙7:25)


突然パウロは文脈を無視して感謝します。なぜ、葛藤の只中で感謝ができるのでしょうか?それは、イエス・キリストの力によって、この戦いに立ち向かうことができるからです。

私たちが私たちの罪に目を向けて、失望し、葛藤し、そこで終わってしまっては、感謝は出てきません。しかし、私たちが、イエス様が十字架で罪を処罰され、罪の力を打ち破って復活されたということに目を向ける時に、私たちは感謝することができるのです。そして、その復活のイエス様が私たちの内側に住んでおられるというその事実が、私たちがこの罪の葛藤に打ち勝っていく、唯一の答えです。

自分で戦おうとしてはいけません。私たちがキリストにあって罪に死んだのが、キリストによる一方的な恵みによるものだったように、私たちがキリストにあって生き続けるのも、またキリストによる一方的な恵みによるものなのです。イエス様によって私は十字架に付けられました。でも、自分で復活しようとしてはいけません。私たちは復活できません。復活したキリストが私たちのうちに生きているのです。

私はキリストとともに十字架につけられました。 もはや私が生きているのではなく、 キリストが私のうちに生きておられるのです。 いま私が肉にあって生きているのは、 私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

聖書(ガラテヤ人への手紙2:20)


遠藤周作の『深い河』という小説をご存知でしょうか?その小説に、大津という、うだつのあがらない学生が出てきます。彼はクリスチャンで、放課後、チャペルでお祈りをするちょっと変わった男でした。美津子という人気者の女学生は、なぜかそんな変わった大津のことが気になり始めます。

ある時、美津子はこう言って、大津を誘惑します。「お祈りなんかに行かないで、私と飲みにいきましょう」。大津も美津子の魅力に負けて飲んだこともないお酒を飲みについていきます。美津子は大津の信じる神から彼を引き離そうとやっきになります。「本当に神なんか棄てたら?棄てるって私に約束するまで飲ませるから。棄てるんだったら、これ以上飲むの許してあげます」「どっちをとるの?飲むの?神を信じるのやめるの?」と美津子は迫ります。顔を真っ青にしなが ら大津は飲み続けます。これ以上飲めなくなって倒れ込んだ時、つまり、神を棄てざるをえなくなった時、大津は今にも泣きそうな声で美津子に言いました。「ぼくが神を棄てようとしても、神はぼくを棄てないのです。」

この小説のように、私たちが、罪により葛藤し、神様を棄てるようなことをしてしまったとしても、神様は私たちを捨てません。もちろん、だからと言って罪を犯し続けても良いという意味ではありません。この小説の大津少年がお酒を飲み続けて開き直って良いということではありません。自分の失敗、問題、罪はちゃんと悔いて嘆いて、主が喜ばれる方向に方向転換して初めて、本当の悔い改めです。

神様を抜きにして自分を見てはいけません。自分の中に住んでおられる神様を見るのです。

葛藤は聖霊がおられることの証し

イエス様が私に一つのことを示されたことがありました。それは、私の身体に罪の原理があることを知っていくと同時に、こんな罪深い、どうしようもない、弱い、汚いものの中に、聖い聖霊様が確かにおられるんだということです。「なんで、神様はこんな弱いものを捨てないんだろう。こんな汚いものの内側に住んでおられ、助け、導いてくれるんだろう。裁かれて当然なのに、離れてしまって当然なのに」

でも、これがキリストの愛、キリストの恵みなんだと思います。聖霊様がおられると同時に、私の中には、罪を憎み、罪と戦おうとする新しい人がいることもはっきりと分かるようになってきました。それが、パウロがローマ人への手紙7章22節で言っている、内なる人です。

すなわち、 私は、 内なる人としては、 神の律法を喜んでいるのに、

聖書(ローマ人への手紙7:22)

私たちは、クリスチャンになっても、未だに古い自分、罪深い自分がまだ力を持っていることに注目し、失望します。
しかし、それと同時に、確かに、私たちの内側には、キリストの復活によって、新しく生まれ変わった自分がいるのです。パウロは言いました。

ですから、 私たちは勇気を失いません。 たとい私たちの外なる人は衰
えても、 内なる人は日々新たにされています。

聖書(コリント人への手紙第二4:16)

私たちは、古い罪の自分に目を向け続けるのではなく、キリストにあって新しく造りかえられた自分がいることに目を向け、感謝するべきなのです。内なる新しい人は、私たちと共に住んでおられる聖霊様が日々、私たちを新たに、造り変えてくださるのです。

まとめ

みなさん、葛藤があっても諦めないでください。罪に対して、自分に対して、ストレス、怒り、悲しみ、飢え渇きがあっても、それで良いんです。逆に、もし、私たちが、罪による葛藤に対して、無関心になったり、諦めたり、「どうせ、赦されるんだから罪を犯しても大丈夫」と開き直ったりするならば、それは大きな問題です。

無感覚になってはいないでしょうか?また、自分で頑張って戦おうとしても問題です。私たちの内側に住んでおられる聖霊なる神様にゆだねましょう。どうやって委ねるんですか?信仰によってです。イエス様の霊である聖霊が、私たちを日々造り変えてくださっていることを信じましょう。三歩進んで二歩下がるような信仰生活かもしれません。でも、聖霊様がおられるなら、私たちは確かに前進していくのです。

ある時は、罪によって倒れるかもしれません。遠回りをするかもしれません。以前の生活に逆戻りしてしまうかもしれません。でも諦めてはいけません。私たちの内側には、聖なる聖霊様が住んでおられるからです。

正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。

聖書(箴言24: 16)

私たちを起き上がらせ、私たちの内なる人を日々、造り変えてくださる、私たちの主イエス・キリストのゆえに、 ただ神に感謝しましょう。

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About The Author

札幌ガーデンチャーチ牧師ゆうき牧師
牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。
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