【人生を変える聖書のメッセージ#8】私たちは神の協力者「クリスチャンってどこまで努力すべき?」コリント人への手紙第一 3:1-9

クリスチャンってどこまで努力すべき?
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はじめに

ある兄弟たちとの交わりの中で、こんな話になりました。「クリスチャンってどこまで努力するべきなの?」
なぜ、このような疑問が出るかというと、クリスチャンとは、昔は、自分の力で頑張って努力して自分の人生を切り開いていた人が、ある日試練に遭い、砕かれ、自分には何もできないということを認めて初めて神様に頼るというようなプロセスを通るのが一般的なイメージだからだと思います。私たちの努力する領域と、神様に頼る領域。どこまで自分でやって、どこまで神に頼るのか。

「神様がやってくれるから、全部まかせればいいんだよ。」という言葉を聞きます。じゃあ何もしないのでしょうか?皆さんはどう思いますか?

もう少し、神学的な問題に行くならば、神様はすでに誰が救われて、誰が救われないかを知っておられます。だとすると、私たちは福音を伝えなくても良いのでしょうか?神様はすでに、私たちが祈る前から、私たちの祈りを知っておられます。なら、私たちは祈らなくても良いのでしょうか?

主がいないと何もできないことを認めることと、何もしないことは違います。主が全ての結果を知っておられるから、何もしないということも違います。なぜなら、「私たちは神の協力者」だからです。どこまで、自分でやって、どこまで神様に任せるのか。もしかすると、この考え自体がずれているのかもしれません。
今日は、コリント人のへの手紙から、「私たちは神の協力者」というタイトルで共に、みことばから答えを得てまいりたいと思います。

成長してくださるのは神様

コリント人への手紙第一は、パウロによって、コリントの教会員に書かれた手紙です。

【背景】
コリントは、現在のギリシャにあった都市で、地中海貿易の中心地の一つでした。ギリシャ人、ローマ人、多くの東の人々など、さまざまな民族が集まって住んでいたため、宗教的な混合と堕落が深刻で、アフロディト神殿では神殿売春が行われていました。コリントには有名な哲学と修辞学の学校があり、知識層のプライドは相当なもので、学問が大変栄んでした。そして、多くのユダヤ人たちもここに住んでいて、コリントの教会にもユダヤ人がいたことが予想できます。パウロがそんなコリントの教会に書き送った目的は何だったのでしょうか?

あなたがたは、 まだ肉に属しているからです。 あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、 あなたがたは肉に属しているのではありませんか。 そして、 ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

聖書(コリント人への手紙第一 3:3)


3節には、妬みや争いと書いてありますが、簡単に言うと「分派」です。コリントの教会には、他にも大きな問題が起こっており、今回の箇所はそのうちの一つの「分派」という問題について取り上げているのです。

4 ある人が、 「私はパウロにつく」と言えば、 別の人は、 「私はアポロに」と言う。そういうことでは、 あなたがたは、 ただの人たちではありませんか。
5 アポロとは何でしょう。 パウロとは何でしょう。 あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、 主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。

聖書(コリント人への手紙第一 3:4-5)


ここから、コリントの教会員は、パウロとアポロというリーダー、どっちが優れているか、自分はどっちのグループに所属しているのかという分派が起きていたのです。では、パウロはどのようにこの分派の問題に対する聖書的な答えをしているのでしょうか?

今日のキーとなる箇所は9節です。

私たちは神の協力者であり、 あなたがたは神の畑、 神の建物です。

聖書(コリント人への手紙第一 3:9)


神の協力者という言葉の「神の」という言葉の原語を見ると、神に所属するという意味があります。つまり、コリント教会の人たち、あなたたちはパウログループに所属しているのではない。アポログループに所属しているのでもない。
あなたたちは、神に所属しているのではないのですか?だからこそ、パウロは、「私たちは」つまり、パウロやアポロのような牧会的なリーダーは、神の協力者であると言いました。

つまり、リーダーも神に所属する働き人であります。そして、コリントの教会員たちのことを神の畑、神の建物と言いました。ここでの強調は、「神の」という所有を意味する言葉です。協力者と、畑や建物という言葉の違いから、神様が立てたリーダーの重要性と役割の違いがわかります。

しかし、パウロが強調しているのは、「神に所属している」ということです。私たちが神に所属している、神のものであるということは、私たちが思っている以上に大切な真理です。なぜなら、これらは、私たちのアイデンティティの問題だからです。コリントの人々は神よりも人についていました。これは信仰的には致命傷です。

あなたがたはめいめいに、 「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。

聖書(コリント人への手紙第一 1:12)


私たち人間と神を同列に並べてはいけません。それが、素晴らしいリーダーであっても、有名な牧師であってもです。イエスキリストとリーダーを同等に扱ってはいけません。なので、パウロは1節から3節で、肉に属する者たちとかなりきつい言い方で話しています。神に属するというアイデンティティを放棄して、神ではない他人にアイデンティティを持つことは、信仰の土台を履き違えている重要な問題なのです。

私たちは神に所属している

この「私たちは神に所属している、神のものである」ということを、もう少し、掘り下げていきましょう。

6 私が植えて、 アポロが水を注ぎました。 しかし、 成長させたのは神です。
7 それで、 たいせつなのは、 植える者でも水を注ぐ者でもありません。 成長させてくださる神なのです。

聖書(コリント人への手紙第一 3:6-7)

パウロは立て続けに、パウロとアポロという人間よりも、成長させてくださる神の重要性を話します。ここでは、創造主と被造物の決定的な違いを明らかにすることで、私たちの働きは神様がいなければ意味がないと言っています。

9節のあなた方は神の畑です。というフレーズも関係するのですが、旧約聖書で、イスラエルの民は畑として例えられており、この発想は非常にヘブライ的です。神が地の農作物を成長させるということは、創世記1章から始まる「創造の神学」に基づいたものです。

あなたは、 地を訪れ、 水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。 あなたは、 こうして地の下ごしらえをし、彼らの穀物を作ってくださいます。

聖書(詩篇 65:9)

主は家畜のために草を、また、 人に役立つ植物を生えさせられます。 人が地から食物を得るために。

聖書(詩篇 104:14)

5 ついで、 その地の種も取って来て、肥えた土地に植え、豊かな水のそばに、 柳のように植えた。
6 それは生長し、たけは低いが、よくはびこるぶどうの木となった。その枝は鷲のほうに向き、その根は鷲の下に張り、こうして、ぶどうの木となって、枝を伸ばし、若枝を出した。

聖書(エゼキエル書 17:5-6)


エゼキエル書17章7節のギリシャ語七十人訳聖書(しちじゅうにんやくせいしょ)には、植えられて、畑、水が注がれ、と今回の箇所と同じ言葉が使われています。もしかすると、パウロはここから言葉を引用したかもしれません。私たちの主は創造主です。何もないところから、すべてのものを造られました、そして、それらのものを成長させているのは神です。人間は、神様が造った動物のお世話や作物の成長を助けることはできます。でも、成長させることはできません。

ここに、私たちが働くときの重要な教えがあります。私たちの働きは神の創造の力がなければ実を結ぶことはありません。聖書をよく読むと、人間が成し遂げた、人のわざが書いてある箇所は少ないことに気づきます。それよりも、神の力により頼み、信仰によって進んだ信仰者を通して働かれる、神のみわざが多く書かれています。使徒の働きはよく、聖霊の働き、聖霊行伝とも言われます。それは、主役は使徒ではなく、使徒を通して働かれた聖霊だからです。だからこそ、私たちは、まず創造主である神につながっていなければなりません。

ヨハネの福音書15章5節でイエス様はこう言われました。

わたしはぶどうの木で、 あなたがたは枝です。 人がわたしにとどまり、 わたしもその人の中にとどまっているなら、 そういう人は多くの実を結びます。 わたしを離れては、 あなたがたは何もすることができないからです。

聖書(ヨハネの福音書 15:5)

まず、ここで覚えたいことは、神に所属しているかどうか。神につながっているかどうかです。神のみわざが私たちを通して為されるためです。だからこそ、神様に依り頼む、祈りというものは非常に重要なのです。

では、私たちの働きは必要ないのでしょうか?絶対にそんなことはありません。驚くべきことに、私たちにも役割があると聖書は言っています。9節をもう一度読みましょう。

私たちは神の協力者であり、 あなたがたは神の畑、 神の建物です。

聖書(コリント人への手紙第一 3:9)


私たちは神の協力者である。
→これはすごいフレーズではありませんか?

このフレーズにはダブルミーニング、二重の意味があるのです。私たちは神に所属する者たちである一方、私たちは神と共に働く協力者なのです。もちろん、神と私たちを同列にしてはいけません。しかし、人が神と共に働く協力者であ
ることは他の箇所にも出てきます。

私たちは神とともに働く者として、 あなたがたに懇願します。 神の恵みをむだに受けないようにしてください。

聖書(コリント人への手紙第二 6:1)

そこで、 彼らは出て行って、 至る所で福音を宣べ伝えた。 主は彼らとともに働き、 みことばに伴うしるしをもって、 みことばを確かなものとされた。

聖書(マルコ 16:20)

神様は人の力を借りなければ、できないお方なのでしょうか?もちろん、お一人ですべてのことをおできになられます。でも、神様は人を通して働かれることを決めました。これは、驚くべきことです。パウロは、成長させてくださる神様の素晴らしさを強調しましたが、福音の種を蒔いたパウロと、水を注いだアポロの尊い働きがあったことは忘れてはいけません。

アポロとは何でしょう。 パウロとは何でしょう。 あなたがたが信仰に入るために用い
られたしもべであって、 主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。

聖書(コリント人への手紙第一 3:5)

パウロとアポロがいなければ、コリントの教会はなかったかもしれません。

14 しかし、 信じたことのない方を、 どうして呼び求めることができるでしょう。 聞いたことのない方を、 どうして信じることができるでしょう。 宣べ伝える人がなくて、 どうして聞くことができるでしょう。
15 遣わされなくては、 どうして宣べ伝えることができるでしょう。 次のように書かれているとおりです。 「良いことの知らせを伝える人々の足は、 なんとりっぱでしょう。」

聖書(ローマ人への手紙 10:14-15)


もし、彼らがしなくても、神は違う人を選んだことでしょう。つまり、「神様が成長させてくださるのなら、私たちは何もしなくてもいいんだ。」
それは間違いだということです。

神様はすでに誰が救われて、誰が救われないかを知っておられますか?なら、なぜ、宣教するのでしょうか?
神様はすでに、私たちが祈る前から、私たちの祈りを知っておられますか?なら、なぜ、祈るのでしょうか?
なぜ、福音を一生懸命伝えるのでしょうか?私はこの一生懸命という言葉が好きです。
なぜ、一生懸命人と関わっていくのでしょうか?なぜ、一生懸命奉仕するのでしょうか?
神が私たちと働くことを決められたからです。

それは父と子の関係です。子に任せて、達成する喜びを体験してほしい。試練や困難の中にあっても神と共に歩む幸せを体験してほしい。それは、神を愛し、人を愛することを学ぶ時でもあります。それは、キリストのからだの一部としてかしらであるキリストのもとで、一致を体現する時でもあります。

キリストは過去の人物ではない。未来に来るから今はいないという方でもありません。神は時を超えているのです。イエス・キリストは聖霊を通して、今も私たちの只中を共に歩まれるお方なのです。キリストは私たちと共に働くことを決められました。だからこそ、私たちの働きが必要です。だからこそ、私たちの祈りが必要です。だからこそ、神様はイザヤにこういったのです。

私は、 「だれを遣わそう。 だれが、 われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、 言った。 「ここに、 私がおります。 私を遣わしてください。 」

聖書(イザヤ書 6:8)

ニックブイチチ

皆さんはニックブイチチをご存知でしょうか?彼は、1982年、オーストラリアで、両手両足を持たずに生まれました。子供の頃から、壮絶ないじめにあい、8歳の時には、孤独で、辛い毎日に、生きる意味も分からず、学校に行く理由もなく、人生に絶望し、人生を終わらせたかったと言うほどの苦しみを経験したと言います。しかし、間も無く彼はキリストに出会い人生が変わりました。その後、彼は世界中を飛び回り講演し、水泳、サーフィン、ボート、魚釣りなどたくさんのことにチャレンジし、本を書き、キリストの伝道師として熱心に働いています。結婚もして、子供もいます。彼は色々な国の皇族や政治的指導者に個人的に福音を伝えるだけではなく、大きなスタジアムで群衆に向けてキリストを証しすることもあります。

私は、彼を神の協力者の良い例だと思います。彼は自分が神に所属している、神のものだという強力なアイデンティティがあったからこそ、大胆に、そして前向きに挑戦しました。彼の頭には、自分はこれができる、これができないという限界はありません。彼は講演の中でこう言っています。

僕が幸せなのは、「自分には欠けているものがるけれど、ニックブイチチという人間としては、何一つ足りないものはない」そう気付いたから僕は自分にできることをすればいい。そう思うと、「自分の人生に限界はない」と感じられるようになった。困難があっても、未来には無限の可能性がある。そのことを、あなたにも知ってほしい。

両手両足がないということに限って言えば、ニックは他の人より多くのことができないかもしれません。しかし、彼が信仰によって神により頼み、神の協力者として持っているすべてのものを使って大胆に行動した結果、彼は本当に神のために多くのことをしているのではないでしょうか?

まとめ

主がいないと何もできないことを認めることと、何もしないことは違います。どこまで、自分でやって、どこまで神様に任せるのか。明確に線引きなんてできません。しかし、わかっていることは、私たちは神様の力がないと何もできないということ。そして、神様は私たちと働かれると決められたということです。聖書が言っているのです。「私たちは神の協力者」だと。

神に所属し、神と共に働くものです。神様と同等ではありません。しかし、私たちに任せてくださっている重荷があるのです。働きがあるのです。そこは、私たちが一生懸命するべき領域。賜物をよく管理して使う領域。努力する領域があるのです。

あなたが、神様から委ねられていることは何でしょうか?神様があなたにお語りになり、一歩踏み出さないでストップしていることはありませんか?あなたが、するべきことをそのままにしていませんか?不安がある。恐れがある。信仰が足りない。気持ちや体力がついていかない。私にはできない。そう思っていることはありませんか?

神様は待っています。「だれを遣わそう。 だれが、 われわれのために行くだろう」
恐れないでください。 私たちが主のために立ち上がる時、聖霊様が助けてくださいます。 
「私にはできません」そうです。最初からできないのです。しかし、自分で限界を決めないでください。神に限界はないのです。そして、神様はあなたと共に、御心を行うと決められたのです。私たちに必要なことは信仰です。全知全能の神様を信じてください。祈ってください。そして、一人でするとは思わないでください。

植える者と水を注ぐ者は、 一つですが、 それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。

聖書(コリント人への手紙第一 3:8)


と書いてあるのです。パウロとアポロが共に協力したように、私たちもまた一人で神の働きをするのではありま
せん。神の家族として、教会として、私たちは共に一つのからだとして、進んでいきます。

私は、「だれを遣わそう。 だれが、 われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、 言った。 「ここに、 私がおります。 私を遣わしてください。 」

聖書(イザヤ書 6:8)

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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