山上の説教⑲ 「宗教的パフォーマンスがあなたを苦しめる」(マタイ 6:1-4)

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はじめに

日本の教会に来たあるアメリカ人牧師が言ったそうです。
「なんで日本の教会は忙しいのか?」
日本のクリスチャンは「神様のためにしなければ」と、必要以上に「もっとしなくちゃ」と、あせって頑張るところがあると感じたそうです。

日本では、忙しく、頑張っていることが美徳とされ評価される気がします。
しかし、そのために犠牲になるのは、人間関係や健康です。
日本人の45%の人が、6カ月以上にわたって疲れが続く慢性的な疲労を抱えているという調査があります。
45%ということは、この中の半分です。

みなさんは、疲れを感じていませんか?
なんだかずっと忙しいと感じていませんか?
残念ながら、この疲れや忙しさは、ちょっと休めば解決すると言った類のものではありません。
「少し休めば大丈夫」と回復しても、また燃え尽きるまでまた自動的に忙しくします。
「ひと段落ついたらゆっくりできる」と思っても、現実は一つのことを達成すれば、また次の目標のために頑張り始めます。

「今はメッセージ準備ですごい忙しいから、今日は我慢してくれ」
「今回も〇〇ですごいストレスを感じているから、俺に合わせて欲しい」
こうやって何度も言っているうちに、妻にこう言われたことがあります。
「一体、いつになったら、普通になるの?」
これは、心の奥底にプログラミングされた根っこの問題を解決しないと治りません。

それは、「パフォーマンス指向」という問題です。
パフォーマンス指向とは、エリヤハウスという心の癒しプログラムで出てくる症状のことです。
パフォーマンスとは、歌を歌ったり、ダンスをしたりするという意味で使われていますが、
本来の意味は、「良い行ない、功績、偉業」です。
つまり、パフォーマンス指向とは、良い行いや成果によって、他人からの愛や承認を得ようとすることなのです。

根本的に、心の中に、恐れや不安、満たされない思いがあるので、愛や承認を「行い」によってその隙間を埋めようとします。
その行いをパフォーマンスと言います。
しかし、本質的な心の隙間が満たされない限り、パフォーマンスは止まりません。

なので、こういう人は、批判を受けるのが難しく、常に忙しいのです。
溜めれば鬱。発散すれば怒りや暴力として現れます。
どうやったら、このパフォーマンス指向から抜け出すことが可能なのでしょうか?
その答えが、今日の箇所にあります。

今日のメッセージを聞けば、私たちは神の言葉によって慢性的な疲労から解放されます。
信じましょう。
では、早速、見ていきましょう。

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「宗教的パフォーマンス」とは?

マタイ6章の前半では、ユダヤ教の3つの宗教的な行いについて語られています。

施し(6:2-4)
祈り(6:5-5-15)
断食(6:16-18)

これらの3つは、現在でも、ユダヤ教においてとても重要です。
ちなみに、ここに「メッカへの巡礼」と、「信条の暗誦」の二つを加えると、イスラム教の宗教活動の五つの柱になります。

そして、今日の1節は、2〜18節の序論です。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。

聖書(マタイ6:1)

イエス様は、 これらの三つを弟子の宗教的な生活を否定しているわけではありません。
施しも、祈りも、断食も重要です。
神様が喜ばれ、私たちの信仰生活に益があります。

ここでのイエス様が言っていることのポイントは、
「人に見せるためのパフォーマンスをやめなさい」ということです。

施しも、祈りも、断食がダメなのではなく、人からよく見られたいという動機が悪いと指摘しているのです。
当時のユダヤ教の指導者、パリサイ人たちの中には、宗教的なパフォーマンスからこれらのことを行っていた人もいたようです。

つまり、当時のユダヤ教の人たちは、「パフォーマンス指向」に陥っていたということです。

ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

聖書(マタイ6:2)

ユダヤ教では施しは宗教的な義務でした。
施しの重要性は、聖書に書いているのです。

貧しい人が国のうちから絶えることはないであろう。それゆえ私はあなたに命じる。「あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。」

聖書(申命記15:11)

当時、弱者に救いの手を差し伸べる人には、それに伴う補償もあり、その行為が人を救うと教える者までいました。
ギリシャ人とローマ人にとっても、公益事業や貧しい人々のために巨額の寄付金を出すなら、 大衆から大きな人気を得ることができました。

なので、イエス様の時代の後にできた教えの中には、所得の10分の1を除いた20%以上の額を施しのために使えないように、法的に規制することもありました。
現代でいうなら、寄付によって節税できるといえば、理解しやすいですね。
アメリカでは教会への献金も節税になります。

悪い制度だとは思いませんが、純粋に献金しているのか、節税のメリットが欲しいのか、動機は少し微妙になりますね。
こういう人をイエス様は、ズバッと「偽善者」と言います。
「偽善者」ギリシャ語では「役者」です。
つまり、人から賞賛を受けたいパフォーマーは、「偽善者」なのです。

どんな良い行為も、パフォーマンスになると宗教的偽善になるということです。
これは、罪です。
宗教的パフォーマンスは、動機だけではなく、結果も違うからです。
本当の施しは、神に栄光が帰されます。
しかし、宗教的パフォーマンスは自分に栄光が帰されます。

ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

聖書(マタイ6:2)

神からの報いもなくなります。
人に見せるなら、人々の賞賛という報いが手に入ります。
しかし、神様から与えらえる本当の「報い」を得ることはできません。

それどころではありません。
本当の自分を偽るパフォーマンスには最悪な結末が待っています。
それは、失望です。

どんなに自分をよく見せようとパフォーマンスしても、人が認めてくれないことがあります。
褒めてくれないで、むしろ批判や誤解することもあります。
人の賞賛では心は満たされないので、また、パフォーマンスを続けることになります。
達せしても次から次へと更新される終わりのない営業のノルマのようです。

これは悲劇です。
教会の奉仕もパフォーマンスになる場合があります。
聖書を読み、祈ることもパフォーマンスになることがあります。
良いクリスチャンを演じる、良い父親を演じる。良い上司、部下を演じる。

その結果、本当の自分ではない「良い誰か」を演じるので、疲れるのです。
ストレスを感じます。
他人は完全には認めてくれないので、失望が来るのです。
人に好かれようと頑張っても、自分を身売りしているように感じたり、あるいは人を騙しているようにすら感じます。

では、このパフォーマンス指向の原因はなんなのでしょうか?
それは、一言で言うなら、神さまよりも人の評価(人の目)を重んじているということです。
このパフォーマンス指向の特徴を持っているのは、まさに、私です。
今まで、常に上司の期待に答えようと頑張ってきました。
私自身は無意識です。

上司からの承認や愛を、頑張りによって得ようとしていたのです。
だからいつも、忙しく、疲れていました。
それは、銀行でも、神学校でも、教会でもそうでした。
特に、開拓する前、牧師として働きながら、私はうつ病の寸前になりました。

牧会を少し休んでいる間、東京のある先生に自分の状態を分かち合ったとき、その牧師は冗談半分でこのように言いました。
「神様はね。嫉妬してたんじゃないかな」
ハッとしました。

確かに私は、神様のためと言いながら、自分のリーダーの承認を得ようと頑張っていた。
神様から語られたことよりも、常に教会全体やリーダーの声を優先させようとしていた。
もちろん、本来は神様の声と、教会や牧師の声は、一致するはずですが、私の中でそれがごっちゃになっていたのでしょう。

つまり、私が人の承認を得るためにパフォーマンスをしていたことが神様から示されましたのです。
このパフォーマンスがどこからくるのかは、私の過去の傷や、砕かれていない罪、父親との関係などから来ていると思います。
これから、時間をかけて癒しを受け取る必要を感じています。

しかし、今日、大切なことは、
神さまよりも人の評価(人の目)を重んじている自分に気づき、人の評価や承認を求めるのをやめ、神様のためだけにすべてを行うようにすることなのです。

神様との関係をまず第一にすること。
人から愛されることや、承認されること、評価されることはとても良いことです。
しかし、その土台に、神様からの絶対に揺るがない「愛と承認」がなくてはいけないのです。
だからこそ、イエス様は、人の評価や人の目を気にしてするのではなく、「施しなどの善行」は神様だけにするようにしなさいと言っています。

あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。

聖書(マタイ6:3)

神様の変わらない愛を体験している人は、自分でした善行すら忘れているのです。
リターンを求めていないからです。

あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

聖書(マタイ6:4)

善行をして人から注目されなくても、褒められなくても、認められなくても、気にしなくていいのです。
主がいつも見て、覚えていてくださいます。
そして、最後に、私たちの行いに対する神様からのリターンすら求める必要はありません。
愛や承認も求める必要はありません。

もうすでに、愛され、承認されているからです。
愛されるために良いこでいる必要はないのです。
承認されるために頑張る必要はないのです。

神に愛されているからこそ、良い行いをすることができ、
神に承認されているからこそ、健全に頑張ることができるのです!
イエス様は、私たちの宗教的なパフォーマンスを求めていません。
むしろ、あなたの重荷を担ぐ。
あなたを助けたい。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

聖書(マタイ11:28)

まとめ

今日、神様の中に憩いましょう。
パフォーマンスを

神さまよりも人の評価(人の目)を重んじている自分に気づき、パフォーマンスによって人の評価や承認を求めるのをやめ、神様のためだけにすべてを行うようにしましょう。
ストップし、神様との関係をまず正しましょう。

8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
9 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。

聖書(ローマ8:8-9)

神さまを喜ばせる必要はないし、できないのです。
しかし、聖霊に満たされるならば、信仰によって神様のためにすべてを行うことができると信じます。

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