山上の説教⑳ 「祈り方が9割?」(マタイ 6:5-8)

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はじめに

『祈り方が9割』と言う本をご存知でしょうか?
去年、私は書店だったか、電車の広告だったか、「キャッチーなタイトル」を目にして気になっていました。
神道に精通した経営者の方が書いた本で、2万部以上売れたみたいです。

この本では、「自分のために」ではなく「みんなのために」という祈りが叶うのだと言っています。
神道を研究し、仏教にも精通している著者が、導き出した答えには説得力がありますね。
ビジネス書として2万部上売れることから、「祈り」と言うのは、人々にとって遠い存在ではなく、もちろん、キリスト教においても重要なのが、「祈り」です。

では、みなさんは聖書は「祈るとき、何が最も大切だと教えているか」ご存知でしょうか?
本のように、「祈り方が大事」なのでしょうか?
違います。
聖書は「自分のための祈り」を否定していません。
もちろん、悪い動機で求めるのは、聞かれない可能性が高いでしょう。

聖書が祈るとき、最も大切だと教えているは、「誰に祈るか」です。
「祈る対象が10割」なのです。
なぜ、そのように言えるのか。
今日も、山上の説教のイエス様のメッセージから学んで参りましょう。

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祈るとき、何が最も大切なのか?

また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

聖書(マタイ6:5)

ここでの偽善者はパフォーマーです。
つまり、先週の施しだけでなく、祈りも宗教的なパフォーマンスになりやすいということです。
「会堂や大通りの角に立って祈るのが好き」とは、祈りすらも人によく見られたいがためにする人のことです。

ユダヤ教の会堂での祈りは、前に立って集会を導く人によって行われました。
祈るように前に招かれるということは、おそらく大変栄誉なことだったのでしょう。
「大通りの角に立って祈る」とは、人々の目に留まりやすい所をわざわざ選ぶということを言っています。
特に、午後の祈りの時間を厳格に守るユダヤ人は多いので、「あーあの人は毎日、ちゃんと祈っているんだ。やっぱり素晴らしいな。信仰深いな」と思われるために通りで祈るという人がいたということです。

私が接してきた人から祈りについて聞いてきたことで1番多かったのが、「あまり祈れない」という悩みです。
なので「私こんなに祈ってます」と自慢する人は多くないと思いますが、「少ない祈り」が逆にパフォーマンスになる場合があります。

日曜の礼拝で祈ったから、祈っているから、私はとりあえず大丈夫だろう。
毎朝、少し祈っているけど、祈ってないよりはましだろう。
「祈りは、時間じゃない」
「祈りは、長さじゃない」
と聞いてもいないのに決まっていう人がいます。
そういう人は、「祈っていない」自分に対して無意識に罪悪感や不安を感じている場合があります。
なので、「これでいいのだ」と無理やり自分を安心させている可能性もあるです。

本来「祈り」とは、人にどう思われるかを気にしてするパフォーマンスでも、自分を安心させるために行う儀式でもありません。
これらの間違った祈りは、自分や他人、つまり人に対して行っている祈りです。
人のためという目的を達成するために、祈りを手段にしているということです。
神の名前を使って、自分の欲を満たす偽善という恐ろしい罪が隠れている可能性だってあるのです。
では、イエス様は、どこで祈りなさいといっておられるでしょうか?

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

聖書(マタイ6:6)

「家の奥の自分の部屋」で祈りなさいと言っています。
パレスチナの奥まった部屋とは、他の部屋とは切り離された空間で、窓もなかったため、秘密の空間を指す格言にも使われました。
シークレットプレイス。私たちと神にしかわからない場所。
なんか、いいですね!

2015年に「祈りの力」というアメリカ映画がありました。

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主人公のエリザベスは、浮気した夫と家族の回復のために、神に祈ることを決意します。
彼女が祈った場所をご存知でしょうか?
寝室のクローゼットの中です。そこには聖書の祈りの言葉と彼女の祈りが日記のように、壁いっぱいに貼られているのです。
なぜ、彼女は、クローゼットで祈ったのでしょうか?
それは、祈りは人ではなく、隠れたところで見ておられる神様にするものだからです。

そして、隠れたところで見ておられる神様は、クローゼットでの誰も見ていない祈りを聞いてくださっているのです。
では、結局、ここでイエス様が言いたいポイントはなんでしょうか?
それは、なんのために祈りっているのか?ということです。
言い換えるなら、あなたは誰に対して祈っているのか?
ということです。

人に対して祈っているのか、それとも神に対して祈っているのか。
人にささげているのか、それとも神にささげているのか。
つまり「祈る対象が10割」なのです。
それが、往々にして、祈る場所や時間に現れるのです。

ここでイエス様は祈る場所を例に撮っていますが、もちろん、注意したいことは、祈りにおける本質的な問題は、時間や場所なのではありません。
イエス様も弟子たちや人々が見ている前で平然と祈られました。

さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

聖書(ルカ11:1)

これはイエス様の祈りを弟子たちは見ていたことになります。一緒に祈ってたのでしょうか。

ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

聖書(使徒3:1)

弟子たちは、ユダヤ教の規定に従って決まった時間に神殿で祈っていました。
定められた祈祷文で祈っていたかもしれません。
それらは決して悪いことではないのです。

重要なのは、人に対して祈っているのか、それとも神に対して祈っているのか。
つまり、誰に対して祈っているのか?
ということなのです。

本当に私たちが神に祈っているのか?をチェックできる指標があります。
それが、次にイエス様が指摘する「どのように祈っているか」です。

また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

聖書(マタイ6:7)

何も考えずに同じ言葉を反復することは、宗教の特色です。

仏教では「南無阿弥陀仏」をただただ反復し、ラマ仏教では木の板にゴマ粒のような小さな字で祈り文を書き、それを読みながら祈ります。
超越的な瞑想者たちが 「マントラ」(聖なる合言葉) を数百回反復することも同じだと言えるでしょう。

これは、同じ祈りを長い間反復しないという意味では決してありません。
主は同じ内容の祈りを3回も繰り返され (26:44)、パウロ もそう しました (I[コリ 12:8)。

では、なぜ、イエス様は、異邦人を例にあげ、ただ繰り返す祈りを禁じたのでしょうか?
それは、異邦人は、祈りの量や祈りの熱心さによって効果が高まると思っていたからです。

ここでも、誰に祈っているか?が炙り出されるわけです。
え?どういうこと?
私たちが祈っている対象は、聖書の神です。
神様は、どういうお方かというと、「私たちの祈りの完璧さや長さや熱心さ」によって、効果を変える方ではないからです。

私たちの祈りが聞かれる理由は、神様が「真実であり、最善であり、良いお方」だからです。
つまり、祈る言葉に思いを向けるのではなく、祈る対象がどのような方であるかを理解することが重要であるという意味なのです。
ちょっと、整理しましょう。

①祈る動機 人にどう見られるかではない。→自分に焦点
②祈る言葉 長ければよい、熱心なら聞かれる→自分に焦点

祈りは、祈る対象である神様に焦点を当てることです。
自分が中心の祈りは、偽善であり、偶像礼拝になる可能性があるのです。
だからこそ、イエス様は、このように祈る対象である神様がどのようなお方かを説明します。

ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。

聖書(マタイ6:8)

私たちの神は、私たちが求める前から、私たちに必要なものを知っておられるのです!
だからこそ、長く祈るとか、口数多く祈るとか、人に見せるとか、そういうものはそもそも関係ないのです。

私たちが祈る対象である神様が、私たちの必要をすでに知っておられ、しかも「真実であり、良いお方」だからこそ、最善のタイミングと方法で祈りに答えてくださるのです。
それを信じることが、「信仰」なのです。

よく、「神様がすでに私たちの祈りを知っているなら、祈りは無駄じゃないのか?」という質問を聞きますがそれも間違っています。
祈りの本質は、祈願ではなく、神様との会話であり、父と子のコミュニケーションだからです。
父親は子供の必要を知っている。
しかし、子供が話してくれると嬉しいし、助けたいのです。

孤児の父と呼ばれたジョージ ミュラーは、アシュリータウンに大きな孤児院を建てて、孤児たち 養育しました。ある日、ひどく寒い冬の日に孤児院のヒーターが故障し、修理に最低一週間はかかり そうでした。孤児院の人々はジョージ ミュラーに駆け寄り、「先生、大変です。赤ん坊のいる建物の ヒーターも故障して、子どもたちが凍え死にそうです」と騒ぎました。

ミュラーは、聖書を脇に抱えて 教会に行き、一晩中神に叫びました。
気候さえも治められる父なる神よ。この幼子たちはみな、あなたが私に任せられたいのちです。
この幼いいのちの父は神様であり、私はただ仕える者です。
時間と 環境を治められる父よ。ヒーターの修理中は、どうか春の天候に変えてください。

彼が祈っている と、突然東風が吹き始め、イギリス全体が春の天候になりました。
神が彼の祈りを聞いてくださり、イギリス全体を温室に変えられたのです。
ヒーターの修理が終わると、再び冬の冷たい北風が吹き始めました。
みなさん、神様は私たちの祈りを待っておられます。

まとめ

5-6節でパリサイ人たちの偽善的な祈りを指摘したイエス様がのポイントは、私たちがなんのために祈りっているのか?ということでした。
言い換えるなら、あなたは誰に対して祈っているのか?
ということです。

本当に私たちが神に祈っているのか?をチェックできる指標がありました。
それが、7節と8節の「どのように祈っているか」です。
祈る言葉に思いを向けるのではなく、祈る対象がどのような方であるかを理解することが重要であるという意味なのです。

神様はどのようなお方でしょうか?
神様は、「真実であり、最善であり、良いお方」です。
ジョージミュラーの祈った神様と同じ神様が今日、ここにおられます。
いや、毎日あなたと共におられます。
そのことを知っているなら、祈らない理由はありません。
結果、長い祈りになることになります。
多くの言葉を伴った祈りになることになります。

あなたの問題はなんですか?
あなたの願いはなんですか?
「真実であり、良いお方」である神様に、祈りましょう。
必ず、祈りを聞いて、最善の道に道に導いてくださるからです。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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