山上の説教③柔和な者は幸いです 「踏みつけられてもじっと我慢している人たち」マタイ 5:5

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はじめに

今日は、「柔和」を取り上げます。
柔和という言葉を辞書で引くと、

「やさしく、おだやかなさま。とげとげしい所のない、ものやわらかな態度・様子」

柔和が何かを知るためには、柔和でないものを見るのも理解を深めます。

柔和の対義語「辛辣」
「言葉や表現が非常に厳しいさまを表す言葉」です。

辛辣と言う言葉で真っ先に浮かんだのは、Appleの創業者スティーブ・ジョブズです。

「人々を30分以上も怒鳴り続けた」
「ライチタイムに従業員を同僚の目の前でクビにした」
「人事部のスタッフは平凡で、いかに無意味な仕事をしているかと人事部スタッフに語る」

生まれた時から「この子は私の娘ではない」と否定され続けてきたジョブスの娘の自伝によると、彼女は「お前には何もやらない」や「お前の臭いはトイレみたいだな」などと言う言葉を受けていたことを書いています。

彼の成し遂げたことは否定できないほど偉大なことです。
私もapple製品が大好きで、変わっているジョブスも好きです。

もちろん、これは一部分かもしれませんが、彼の人に対したこれらの態度は辛辣であり柔和ではありませんでした。

聖書は

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

聖書(マタイ5:5)

と言っているのです。

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聖書のいう柔和とは?

先ほどの柔和の定義は辞書の定義でした。
「やさしく、おだやかなさま。とげとげしい所のない、ものやわらかな態度・様子」

では聖書のいう柔和とは何か?
聖書のいう柔和なものは、
「踏みつけられてもじっと我慢している人たち」のことです。

ちょっと、辞書の柔和とは違いませんか?
辞書の柔和は、どちらかというと、人柄や態度を表しています。
というか、「やさしく、おだやかな人」っていうのは、クリスチャンでなくても存在します。
「金持ち喧嘩せず」ということわざがあるように、金銭的に余裕があれば、心に余裕ができ喧嘩をする気持ちにはなりにくいというものです。

しかし、聖書のいう柔和は、心に余裕があればできるとか、頑張れば身に付くスキルではないのです。
心が貧しくなり、悲しんだ結果、高慢やプライドが入る余地のないくらい、砕かれた状態。
それが、聖書の柔和です。
無教会派に属した塚本虎二という人の翻訳が一番近いのです。
「踏みつけられてもじっと我慢している人たち」
なぜ、踏みつけられても、じっと我慢しているのでしょうか?

社会では、そんな人は損します。
ある説教者は、私たちの現実社会はこれと正反対であると言います。
「踏みつけられても、じっと我慢している」ような柔和な人々は損をし、貧乏くじを引かなければならず、押しのけられていく。
反対に、ずうずうしい人、わがままな人は成功し、出世する、これは、わかりきったことだ。
国家レベルで考えてみれば、「踏みつけられても、じっと我慢している」ような柔和な人々が損するのは、わかりきったことです。

もし、日本が外交政策で、他国のいう通り、北方領土、竹島、尖閣諸島を無条件で差し出したら?
戦争を仕掛けてきたら、すぐに降伏したら?
経済的な圧力に、すぐに応じたら?
どうなるでしょうか?
わかりきったことです。

しかし、みなさん、そういう人は、何を受け継ぐと聖書は言っていますか?

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

聖書(マタイ5:5)

地を受け継ぐのです。
What!!??
どう考えても、日本の領土が奪われるでしょ!
聖書、何を言っている?

そうかそうか。
「地」という言葉に意味があるんだろう。
確かに「地」とは詩篇ではイスラエルの土地(パレスチナ)を言います。
でも、このイエス様の言葉の後に、イスラエルは、どうなった?
この言葉の約40年後にローマによって、神殿が焼き払われ、この地からイスラエル人は離散します。
地を受け継いでいないのです。

1948年に建国したイスラエルは約束の地に戻ってきましたが、これもまた世の終わりに破壊されます。
柔和なものが受け継ぐ「地」は最終的な神の国の完成時にもたらされる、千年王国のことを言います。
アブラハム契約で約束されていた「約束の地」にイスラエルの民が住み、そこをメシアが治める千年王国と、その後の新天新地です。

なぜ、「踏みつけられても、じっと我慢している」ことが可能なのか?
それは、「踏みつけられても、(神の正しいさばきに任せているから)じっと我慢している」のです。
これが、聖書の柔和な人です。
聖書の柔和な人は、心に余裕があって感情的にならない立派な人でもなく、コントロールされた怒りの制御でもありません。
心が貧しく、悲しみを経験し、「踏みつけられても、(神の正しいさばきに任せて)じっと我慢している人」のことなのです。
その人は、キリストの再臨と共に、もたらされる地を受け継ぐのです。

預言者エレミヤは、悲しみの預言者と言われています。
彼は、まさに滅びゆくイスラエルの中で「踏みつけられても、(神の正しいさばきに任せて)じっと我慢している」柔和な人でした。

彼の哀歌です。

14 私は一日中、民全体の笑いもの、彼らの嘲りの歌となった。
15 主は私を苦菜で満腹にし、苦よもぎで酔わせ、
16 私の歯を砂利で砕き、灰の中で私を踏みつけられた。
17 私のたましいは平安から見放され、私は幸せを忘れてしまった。
18 私は言った。「私の誉れと、主から受けた望みは消え失せた」と。

聖書(哀歌3:14-18)

しかし、彼はこのように告白するのです。

21 私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。
22 主の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。
23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。
24 主こそ、私への割り当てです」と、私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

聖書(哀歌3:21-24)

主こそ、私の受け継ぐ地です。と言っているのです。
つまり、「踏みつけられても、じっと我慢している」柔和な人は、この世で、神の祝福として土地が必ず与えられるという言葉ではありません。
この世では、多いに損して、奪われていく可能性があります。

しかし、エレミヤは、やがて必ず神様が正しく裁かれることを信じたのです。
なので、神様を求めること自体が、彼にとって、受け継ぐ地なのです。
最も、心が貧しく、悲しみを経験し、「踏みつけられても、(神の正しいさばきに任せて)じっと我慢している人」は誰ですか?
私たちの主イエス・キリストです。

22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。

聖書(1ペテロ2:22-23)

イエス様は、柔和なお方でした。
自分が神であって、自分が作った人間に罵られたら、普通、天から火を降らして殺せます。
弟子のヤコブとヨハネは侮辱された時、そのように提案しましたが、イエス様は弟子たちを叱りました。
それは柔和なもののすることでない。
柔和なものは、罪を犯していないのに、ののしられたとき、ののしり返さず、
不当に苦しめられても、脅すことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになる人。
「踏みつけられても、(神の正しいさばきに任せて)じっと我慢している人」
イエス様は、土地を受け継ぎましたか?
イエス様は十字架にかかり、足の幅ほどの地をも失われました。

聖書は、「木にかけられる者はすべて呪われる。」(申命記21:22、ガラテヤ3:13)と語ります。
地を受け継ぐということが、旧約以来の神の根本的な祝福であるのに対して、木にかけられた者はこの地に足を置くこともできません。

柔和を貫かれた主イエスは足の幅ほどの地さえ失われたのです。

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

聖書( 1ペテロ2:24)

しかし、柔和を貫いたイエス様は、確かにこの地上で地を受け継ぎます。
イエス様は、再びこの地上に再臨され、この地を裁き、キリストを信じ、同じく、「踏みつけられても、(神の正しいさばきに任せて)じっと我慢している人」と共に、この地を治めます。
それは、この地上で迫害され、殉教して言った人々も含みます。

メシアを待ち望み、首をはねられたバプテスマのヨハネも、
この地の誰よりも柔和だったと言われたのに約束の地に入れなかったモーセも、

キリストの再臨時に復活し、キリストは彼らを伴ってこの地を受け継ぐのです。

この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。

聖書(黙示録20:6)

その日、柔和なものから、奪い取る狼や獅子、蛇は変えられます。

狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、 これらは害を加えず、滅ぼすこともない。──主は言われる。」

聖書(イザヤ65:25)

まとめ

柔和な人とは、
「踏みつけられても、(神の正しいさばきに任せて)じっと我慢している人」です。

みなさん、私たちは柔和でしょうか?
心が貧しく、悲しみを経験して、柔和に慣れます。

「自分は悪くない」と正当化する自己主張を十字架につけましょう。
「踏みつけられて」砕かれたプライドを十字架につけましょう。
「怒りや悲しみ」という行き場のない感情を十字架につけましょう。

私たちの目標はスティーブジョブスにならないことではないのです。
例え、私たちの上司が、スティーブジョブスのように辛辣な言葉や態度をあなたに投げかけたとしても、私たちの夫が、妻が、親が、友達が、私たちのプライドを傷つけ、失礼なことをしてきたとしても、(神の正しいさばきに任せて)じっと我慢する人になることです。

そうすれば、私たちは約束の地を受け継ぎます。
十字架で呪われたイエス様の故に、私たちは神様の愛の眼差しが照らされます。
神は私たちのために、復讐されます。裁かれます。
それを信じるものは、例え、「踏みつけられても、(神の正しいさばきに任せて)じっと我慢することができるのです。

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

聖書(マタイ5:5)
この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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