山上の説教⑪ 「あなたがたは決して天の御国に入れません?」マタイ 5:17-20

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はじめに

今日は、山上の説教のメインとも言われる箇所です。

早速ですが、皆さんに、質問です。
この箇所の意味はどういう意味でしょうか?

わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

聖書(マタイ5:20)

実は、この箇所を自信を持って説明できるクリスチャンは多くありません。
それだけ難しい(律法の意味と、イエスの関係)専門用語がたくさん出てきます。

・義
・律法学者やパリサイ人
・天の御国

17節には、律法や預言者。そもそも、全体的に難解。
でも、ある程度聖書を読み、クリスチャンをやっていれば、何となく分かるような気もする。
分からなくてもフワフワして生きれる。しかし、今日の箇所を理解できると、「あ、そうなのか!」と旧約聖書から新約聖書まで一本の柱がストンと建ちます。
それだけ、今日の箇所は大切です。

今日の箇所の結論を一言で言うならば、
イエス・キリストの義によって、天国に入れる。
Wow!超、シンプル!
イエス様は、これだけシンプルなことを言っているんです。

なぜ、難解に感じるのか?
それは、2つ。
マタイ5-7章の山上の説教の全体像がわからないから。
もう一つは、当時の背景を知らないから。

なので、今日は、結論よりも、なぜ、その結論に導かれるようになったのかについて、説明していきます。
聖書の背景をしっかり理解して、信仰の土台を築くならば、
イエス・キリストの義によって、天国に入れる。
と言うシンプルな言葉がズッシリ重みを増し、私たちの信仰は碇のある船のように、揺らぐことはなくなるのです。
今日は3つのポイントで、説明しましが、その前に、山上の垂訓のアウトラインを説明します。

【山上の説教の構成】

  1. 序論(5:1-5:16)対象
    1. 幸いなものとは誰か?神の義が必要な人
    2. 世の光、地の塩としてよい行いをしなさい→神の義を持っている人
  2. 本論(5:17-7:12)聖書で最も大切なこと(神の義、律法の目的、律法の精神)
    1. 5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
    2. 7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。
  3. 結論(7:13-7:27)適用

なので、今日の箇所は、山上の説教の本論に入ったすぐです。
いきなり、イエス様は、説教の結論を言うのです。
それが、イエス・キリストの義によって、天国に入れる。

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なぜ「イエス・キリストの義によって、天国に入れる」のか?

では、この結論に至った根拠を見てきましょう。
それは、イエスは旧約聖書を廃棄せず成就した(17)から。

わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

聖書(マタイ5:17)

律法と預言者=旧約聖書
廃棄=意味ないとすること。
イエス様とバチバチ遣り合っていたのは、当時の律法の専門家、律法学者とパリサイ人です。
彼らは、イエス様の安息日や汚れについての律法に対する態度に違和感を覚え反発していました。
なので、彼らは、イエス様が 「律法や預言者を廃棄」しようとしていると非難していたかもしれません。

そのような背景の中で、イエス様はこのように言っているのです。
「いやいや違うよ。旧約聖書の律法も預言書も大事」イ
エス様は18-19節で旧約聖書の重要性を力説します。

18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。

聖書(マタイ5:18-19)

ただ、ちょっと、行き過ぎているように感じますよね。
戒め(律法)を一つも破るな?行いなさい?あれ?イエス様は、律法主義?

そして、20節でクライマックス。

わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

聖書(マタイ5:20)

パリサイ人の義よりも上の義?
旧約聖書を熱心に守らないと救われないのか?!
でも、それは違います。
18=実現する(=イエスが実現するから)
19=破る(=廃棄する)
これは、律法を守らないと救われないのではなく、むしろ逆です。

律法学者やパリサイ人の義=律法を全力で守ろうとして救われようとする人間の義では天国に入れない。
それを超えないと無理だ。
つまり、これは、神の義、「キリストの義」を表しているのです。
17節に戻ります。

わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

聖書(マタイ5:17)

「旧約聖書は大事。廃棄できない。でも、あなた方に成就はできない。私がその全てを成就するために来た」のだ。
当時、律法学者やパリサイ人が、教えていたメシヤ(キリスト)の役割は、
律法に対して決定的な解釈を下し、時には実質上新しい律法を公布することもありえたのです。(イザヤ2:3, エレミヤ31:31-34)

イエス様はメシヤとして、このマタイ5-7章の山上の垂訓でそれをしている。
ヨハネの福音書には、「新しい戒めです」と言う箇所もある。
つまり、山上の説教で、旧約聖書を丁寧に解き明かすことによって、イスラエルの民に「自分がメシヤ」であることを示しておられるのです。
だから、日本人で背景があまりわからない私たちにとって、このマタイ5-7章の山上の垂訓は難しいのです。

でも、一言で言うなら、「イエス・キリストの義によって、天国に入れる」と言うことですね。
どうやって、イエスは旧約聖書を成就されたのか?
律法の真の意味を説き明かし(マタイ5:21~)
律法の目指すところを自ら実行し(ローマ 5:19)
律法に違反する罪人に要求される刑罰を自ら受けることによって(ローマ 8:3)

すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。

聖書(ローマ5:19)

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。

聖書(ローマ8:3)

つまり、ここでイエス様が言いたいことは、
イエス様が旧約聖書を成就されたので、キリストの義によって、すべての人が天国に入ることができる。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。

聖書(ローマ10:4)

なぜ、律法はキリストを目指すのか?
それは、律法の性質を見れば、わかります。
律法は、私たちの罪を明らかにし、自分の義では神の義を行えないことに絶望させるからです。
律法は養育係とも言われています。

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。

聖書(ガラテヤ3:24)

律法は私たちの目をイエスに向ける養育係なのです。

25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

聖書(ガラテヤ3:25-26)

大切なのは、信仰による義です。
それは、ただ、イエスを信じるだけで与えられます。
なので、20節でイエス様が言われたこの言葉の意味を簡単に解釈できるのです。

わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

聖書(マタイ5:20)

あなた方が頑張って得ようとする義の最終地点は、律法学者やパリサイ人の義です。
その人間の義では天国に入れません。
しかし、キリストである私を信じるものは、神の義を持つので、天国に入れます。

キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

聖書(ピリピ3:9)

つまり、
イエス・キリストの義によって、天国に入れる。
その義は、ただ信じるだけでよい。
これは、すごいことです。
大事なことは、これです。

天国に入るために、頑張るんじゃなくて、
天国に入ってるから、頑張れる。
認められるために、頑張るんじゃなくて、
もう認められているから、頑張れる。

違いわかりますか?
福音は、私たちの原点を大事な場所に戻す。
私たちが目指すゴールが実はスタート地点だったと言うことです。
世の中の宗教は、救いがゴール。
救いがゴールということは、救いは保証されていません。
実感もありません。
しかし、クリスチャンは、救いは無償で与えられ、ここからがスタートです。

すでに喜んでくれている、神を自主的な愛によって喜ばせるために、頑張りますね。
その頑張りは無駄ではありません。
パリサイ人も引っ掛かった。
世の中もそう。
もしかすると、現代人には、このことをすんなり信じるのが難しいかもしれません。
今の世の中は、頑張って成果をださないと認めてもらえないからです。

認めれるのがゴールになっているのです。
なので、がんばらなくても、今のままで天国はいれると言われると、怠け者か、胡散臭い感じに聞こえるのです。
現代社会は、業績至上主義、効率第一主義の競争社会です。
テクノロジーの発展が拍車をかけます。
テクノロジーが生み出すコンピューターやツールを駆使して、短時間で業績を上げれば、認められる。
逆に、テクノロジーを上手く使いこなせないと、業績が出にくくなるので、そう言う人は認められません。

これはまさに信仰によって義とされる世界とは逆。
業績によって義と認められる社会です。
効率的に業績を上げ、結果を出した人は、成功者と言われる。評判も上がり社会的地位も上昇していって「勝ち組」として称賛される。
他方、なかなか業績を上げられず、認められない人は失敗者とされる。
無視され、社会的地位が上がらない(相対的に下がる)「負け組」と侮られる。

したがって負け組にならないため、誰もが業績を上げるために頑張る。
その競争は、どんな大学に入るか、学生の頃から始まっている。
その結果、ものすごいプレッシャーが社会全体に働くのです。
労働者は雇用者から限界を超えた労働を強いられ、労働はますます苦役となります。
過労死の問題に現れているように、業績優先で人間の命も粗末にされる。
でも、誰も止められませんね。
思い切って、業務を縮小させるとライバルチェーンがかっさらって行きます。

そこで、頑張っても頑張ってもついていけない人。
もう頑張るのに疲れた人。
頑張る気力もない人。
頑張るとか言うタイプじゃない人。
そう言う人は、うつ病になったり、自信を失ったり、孤独になったり、卑屈になったりしてしまうのです。

頑張ったら認められるのは、ある意味必要です。
でも、頑張らないと認められないは、嘘です。
もう神様に尊い、存在を認められ、天国に入れる完全な「義」を持っている。
そこが土台になる。
なので、頑張れるのです。
だからこそ、現代に必要なのは、聖書の福音です。

イエス・キリストの義によって、天国に入れる。
すると、歪んだ社会の中で、地の塩として、世の光として、影響力が発揮されていくのです。
「なぜ、あの人は、あんなに頑張れるんだ?」「前向きなんだ?」「失敗しても、卑屈にならないんだ?」
それは、キリストの義によって、認められているので、「頑張っていないお前は認められないぞ。結果が出てないお前はダメなやつだ」と言う世の中の脅迫に影響されないのです。

まとめ

今日の箇所の結論を一言で言うならば、
イエス・キリストの義によって、天国に入れる。
では、この結論に至った根拠は、イエスは旧約聖書を廃棄せず成就した(17)から。
どうやって、イエスは旧約聖書を成就されたのか?

  1. 律法の真の意味を説き明かし(マタイ5:21~)
  2. 律法の目指すところを自ら実行し(ローマ 5:19)
  3. 律法に違反する罪人に要求される刑罰を自ら受けることによって(ローマ 8:3)

イエスは旧約聖書を成就されたので、キリストの義によって、すべての人が天国に入ることができる。
これがゴールなのではなく、これがスタート。
なんで、自分はこんなに頑張っているんだろう?救いの実感が乏しい?
このままでいいんだろうか?という不安がある。
一度、キリストの義の救いに戻りましょう。

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