山上の説教㊱ 人生の嵐や洪水で崩壊しないために「あなたの人生の土台はなんですか?」(マタイ 7:24-29)

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はじめに

私たちは、家を建てる時、どんな素材やデザインで建てるか、家の大きさ、駅は近いか?などさまざまなことを考えます。
しかし、建築家にとって最も重要ことは、立地選定。つまり、どのような「地盤」の上に家を建てるのかということみたいです。

ある一級建築士の方によれば、「一見頑丈そうに見えたとしても、実は柔らかい地盤だったりすることもあり、調べてみなければ地盤の強さはわからない」そうです。
家は、固くしっかりした地盤の上に立ってこそ、あらゆる災害に耐えることができるように、私たちの人生も、何に土台をおいているかが大事です。
あなたは何に人生の土台をおいているでしょうか?

  • お金などの所有物
  • 地位や名声
  • 学問や経歴
  • 仕事
  • 家族
  • 健康
  • 世の中の成功法則や誰かの哲学
  • 自分の経験

これらのものがなくなったとしても、あなたは絶対に揺るがないと言える自信はありますか?

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聖書が伝える人生の土台について

どういう時に、私たちの人生の土台が明らかになるのでしょうか?
人生の苦難です。
イエス様は、今日の箇所で「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても」と洪水や台風で例えられました。

雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。

聖書(マタイ7:25)

日本人は少しこの感覚わかりますよね?

2011の東日本大震災。津波で多くの建物が簡単に流されていきました。
毎年、台風被害で家が壊れる映像がニュースで流れます。
北海道でも、地震で札幌市東区の地面が陥没しました。
人生でも、誘惑の台風や、試練の洪水が押し寄せると、私たち人生は簡単に揺るぎます。
人の人生というのは、なかなか外側からはわかりません。
でも、誰もが内側の悲しみや孤独に押しつぶされそうな時を経験します。
人生にはうまく行く時があるでしょう。
でも、人生には必ず困難があります。自分の力ではどうしようもない時があるのです。

イギリスの世界的ロックバンドクイーンのボーカル。フレディ・マーキュリーはこう言いました。
「すべてを手に入れても、いまだ孤独のどん底にいることがどれほど辛いか想像できるかい?」
アップルの創業者スティーブ・ジョブスも、なくなる前にこのように人生を振り返っています。
「私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった。人生の終わりには、富など、私が積み上げてきた人生の単なる事実でしかない。病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。私がずっとプライドを持っていたこと、認証(認められること)や富は、迫る死を目の前にして色あせていき、何も意味をなさなくなっている。」

つまり、

  • お金などの所有物
  • 地位や名声
  • 学問や経歴
  • 仕事
  • 家族
  • 健康
  • 世の中の成功法則や誰かの哲学
  • 自分の経験

これらのものが、人生の土台にはならないことは、これらを手に入れた人たちが体験を通して伝えているのです。
では、苦難や困難でも揺るがない、人生の土台は何だと聖書は言っているのでしょうか?

24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。

聖書(マタイ7:24-25)

①神のことばを聞いて行う人=岩の家の賢い人→人生の困難でも揺るがない。
②神のことばを聞いて行わない人=砂の家の愚かな人→人生の困難で崩壊する。
つまり、「神のことばを聞いて、行うこと」これが人生の土台です。

実際、マタイ7章に入ってからの、イエス様の言葉はほど、同じ流れで語られています。
それは、「行いの重要性」です。
「広い門からはいって行く人」(13節)、「良い実を結べない木」(19節)、『「主よ、主よ」 と言うが、父のみこころを行わない人』(21〜22節) 「自分の家を砂の上に建てた愚かな人」(26節) 
この人たちはみな同じ選択をした人々です。

神のことばを聞いて、行わなかった人です。
重要なので、ここで「行い」について少し、考えてみましょう。
まず、聖書は「行い」はとても重要だと言っています。
むしろ、「神の御心に叶った正しい行い」はキリストの弟子には必須です。
クリスチャンには不可欠です。

同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。

聖書(ヤコブ2:17)

しかし、同時にクリスチャンやメッセージから「行いは重要じゃないんだ」ってことば聞きますよね?

8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

聖書(エペソ2:8-9)

矛盾しているように感じますよね?
これは、
「行いによっては人は救われないが、救われたら行いが生まれる」
「正しい行いは信仰がないとできないが、信仰があれば必ず行いに現れる」
こういう意味です。
順序が大事なのです。

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

聖書(エペソ2:10)

行いすらも神の恵みであるという理解です。
なぜなら、私たちは恵みによって救われたので、その結果生まれる良い行いは、そもそも神の恵みを土台としているからです。
順序が大事だということです。

もう一つ、重要なことは、「どのような行いであるか?」ということです。
では、信仰を生み出すもの、行いを可能にするものは何か?
それは、神のことばです。

ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。

聖書(マタイ7:24)

「わたしのこれらのことば」=キリストのことば。聖書のことば。神のことば。
なので、そもそも、私たちがするすべての行いは、「聖書にある神のことば」を土台にしているか?ということが大事なのです。
それを明らかにするために、神様は私たちが、人生の嵐を通ることを許される時があるのです。
新約聖書には、イエス様と弟子たちが舟に載っているときに、嵐が起こる場面が書かれています。

すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。

聖書(マルコ4:37)

漁師たちが死を覚悟するくらいの暴風です。
舟に水が浸水し、弟子たちはバケツで水を必死にかき出していたことでしょう。
でも、イエス様は眠っています。

ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。

聖書(マルコ4:38a)

弟子たちは言いました。

弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。

聖書(マルコ4:38b)

イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。

聖書(マルコ4:39)

この後のイエス様の言葉に注目してください。

イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」

聖書(マルコ4:40)

信仰がないのか?
つまり、今日の箇所に照らしてみると、「私のことばを信頼していないのか?」「あなたたちの人生の土台は一体なんなのか?」

事実、「イエス様はお言葉一つで、嵐を静められるお方」でした。
私たちは弟子たちとは違います。弟子たちは、この時イエス様がまだそんなことができるお方だとは体験していなかったのです。
しかし、私たちは新約聖書にこと出来事が書かれているので、読むことができます。

皆さんは、イエス様が私たちの人生の舟に乗っておられ、嵐がきても、ことば一発で鎮められる方であると信じていますか?
信じていないなら、自信がないなら、その人の家の土台は、ぐにゃぐにゃです。
聖書をみると、実にほぼ全ての信仰者が、人生の嵐を通らされています。

自分の家族以外が洪水で死んでしまったノア。
家族も富も健康も失い、友人にも責められたヨブ。
紅海に飲み込まれそうになり、40年間荒野で風にふかれさまよったイスラエルの民。
サウルに命を追われ10年間荒野に逃げたダビデ。
うつになり、カラスに養われたエリヤ。
さまざまな困難を通ったパウロ。

人生の嵐と洪水の中で、彼らが向き合ったことがありました。
それは、「自分の人生の土台は何であるか?」ということ。
神と向き合った。神のことばと向き合ったのです。
聖書の中で、「神のことば」と言われている人物がいます。
イエス・キリストです。

その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。

聖書(黙示録19:13)

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

聖書(ヨハネ1:1)

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

聖書(ヨハネ1:14)

つまり、私たちの人生という家を建てる地盤は、神のことばである、岩なるキリストであるべきです。
また、イエス・キリストは、「岩」とも言われます。

みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

聖書(1コリント10:4)

つまり、人生の土台は、キリストのことばであり、キリストという頑丈で絶対に崩れない岩なのです。
ここに家を建てること、それが、キリストのことばを聞いて、その通り行っていく人生なのです。

まとめ

①神のことばを聞いて行う人=岩の家の賢い人→人生の困難でも揺るがない。
②神のことばを聞いて行わない人=砂の家の愚かな人→人生の困難で崩壊する。

つまり、「神のことばを聞いて、行うこと」これが人生の土台です。
自分は、キリストのことばを、行っていけるだろうか?
聖書のことばを、その通り、行えるだろうか?
そのように不安に思われた方。

一対一で、神にそのように伝えてください。
祈ってください。
「神様、あなたのことばを行っていきたいです。力を与えてください。助けてください。導いてください」神様は、その祈りを求めておられるです。
そうすれば、あなたの人生の岩であるイエス様に出会うでしょう。
今、人生の嵐の只中にいる方は、イエス様に人生を委ねるチャンスです。
全てを委ね、この岩の上に人生をもう一度、セットしましょう。

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