山上の説教㉛ 求めなさい、探しなさい、たたきなさい「求めたら〇〇が与えられる」マタイ7:7-11)

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はじめに

今まで約3880億冊発行されてきた聖書には不思議な力があります。
聖書を読んで救いを得て人生が変わったと言う人もいる一方、太宰治さんや芥川龍之介さんなどのように、読めば読むほど、罪の念に苦しめられ、自ら命をたった人も少なくありません。
なぜ、でしょうか?
絶望に陥ってしまったのは、彼らが、悪い心を持っていたからでしょうか?
そんなことはないでしょう。
むしろ、人間として人生の問題に直視し、聖書に手を伸ばすと言うことは、とても謙遜な姿勢だと思います。

今まで毎週、私たちは、山上の説教と言われる、イエス様の説教を見てきました。
5章の「貧しいものは幸いです」から始まり、7章で終わります。
それらを振り返って、みなさんはどのように感じられたでしょうか?
一言で言うなら、人間には「実行不可能」と言うことです。
なので、芥川龍之介さんとか太宰治さんのように、聖書を読んで、絶望して、自害する人もいたのです。

しかし、みなさん安心してください。
山上の説教の本質的なポイントを掴むためには、今日の箇所までたどり着く必要があります。
それは、だれも山上の説教の倫理的な教えにかなった生活をすることができないという事実を認め、神に自分を明け渡し、神のみこころに従って生きていけるように、神の恵みを求めると言うことです。
その具体的な方法の一つが、今日の祈りです。

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「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」の意味について

今日の内容を一言で言うならば、「祈りなさい!」と言うことですが、まずイエス様は、祈りが答えられる「確実性」を強調されています。

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

聖書(マタイ7:7)

三回の異なった表現を通して、祈る重要性を説明されていますが、これらは特にそれぞれ意味を解説する必要はありません。

これは、「強調」です。
イエス様のプレゼンテーションスキルです。
何を強調しているかというと、祈りが答えられる「確実性」です。
三回、求めなさい。探しなさい。たたきなさい。と私たちのアクションが書かれています。

しかし、三回ともに、答えも書いています。
そうすれば与えられます。そうすれば見出します。そうすれば開かれます。
「与えられる」とは、ギリシャ語の原語を見ると、将来に必ず起こると言う「未来形」が使われています。また、受身形が使われています。

これは、神的受動態ですね。
なぜ、祈りの答えが確実かと言うと、神が答えてくださるからです。
イエス様は、不安な私たちのために、もう一つ、確実性を証明するお話をされます。
それは、

だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

聖書(マタイ7:8)

「だれでも」と言う対象です。
これは文字通り、求める人は「誰でも」です。
11節を見れば、「悪いものでも」と書いているくらいです。

9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。
10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。
11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。

聖書(マタイ7:9-11)

また、天の父と地上の父と対比しています。
「人間の父親でもこうなのだから、天の父なら言うまでもない」と言う意味です。
ここでは、変わった例えが出てきますね?

  1. パンと石
  2. 魚と蛇

これは、当時の背景を知れば、理解できます。
よく似たものの例えです。

  1. パンと石(焼くときに灰がついたパン)
  2. 魚と蛇 (ガリラヤ湖にいた海蛇)
  3. 卵とサソリ(ルカ 11 章) 白い色したサソリ。身体を丸める

悪い人や悪魔は、私たちを騙そうとして、似ているけど、全然違う偽物を渡してきます。
しかし、普通の父親は、そんなこと絶対しません。
子供を愛しているからです。
であれば、天の父親は、私たちの祈りに答えられるに決まっていると言うことです。
ここまで、OKでしょうか?

聖書の約束は、「祈れば、必ず聞かれる」と言うことです。
でも、言いたくなりますよね?
「いやいや、じゃあ、なぜ、私の祈りは答えられないのか?」
「なぜ、クリスチャンになっても私たちの生活には問題があり、悩みがあり、不安があるのか?」

こう言う時は、聖書の他の箇所を見て、総合的に理解する必要があります。
ヤコブ書には、2つの理由が書かれています。
そもそも求めていないから、悪い動機で求めているから

2 あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。
3 求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。

聖書(ヤコブ4:2-3)

まず、私たちは、「祈りが聞かれない!」と嘆く割には求めていません。
というか、「祈りが聞かれない!」という人はまだいいです。
一応、祈る思いはあるからです。
でも、自分の現状に嘆き、失望し、状況や周りの人に不平不満を言う人に限って、祈っていません。

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

聖書(マタイ7:7)

「求めなさい」 「探しなさい」 「たたきなさい」は、すべて祈りを指します。
どんな印象を受けますか?
しつこい。あきらめない。熱心。
ですよね?
私たちの祈りはこうでしょうか?

いずれのギリシャ語の動詞も命令形現在時制です。
これは、どう言うことかというと、“求め続けなさい” “探し続けなさい” “たたき続けなさい” という、継続的な命令のニュアンスが含まれています。
継続的に祈り続けるには、忍耐が必要でしょう。熱心さが必要でしょう。あるときは、気持ちの強さや、結果として時間も多く祈りに費やすかもしれません。

仕事でも、趣味でも、投資でも、興味があれば、色々な本を読んだり、YouTubeを見たり、熱心に調べますよね?
自分や家族が病気になったら、同じようにその病気のことを調べ、どんな病院が良いか調べ、検査や治療に専念します。
強く、本気で求めているからです。
ヤコブ書にある祈りが答えられない理由の二つ目は、

求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。

聖書(ヤコブ4:3)

悪い動機で求めるからです。
僕は、悪い動機であっても、求めてること自体は有益だと思います。

なぜか?
私たちが求めているお方は、天の父なる神だからです。
私たちが意識的にも、無意識的にも、悪い動機で求めているなら、天の父はちゃんと指摘してくださいます。
「それ、違うよ」って何かを通して教えてくれます。
なぜなら、子である私たちを愛しておられるからです!

祈りは、父と子の関係を通して理解することが大切です。
もし、答えられていない祈りがあるなら、父に考えがあると考えましょう。
小学生の子供が、「ゲームやYouTubeやりたいから」スマホ欲しいって言ったら、買ってあげますか?
もちろん、防犯のために持たせる親は多いでしょう。

いいと思います。
ただ、使用時間は制限する必要はあるかもしれません。
むしろ、中毒になるなら、スマホじゃなくて、防犯ベルとかでもいいですよね。
親に考えがあるなら、例え、子供がごねて泣いても与えないかもしれません。
これは、子供の求めに応じないひどい親でしょうか?
また、親は、与えるタイミングを見ているかもしれません。
子供に包丁は与えませんよね。危ないからです。

ここまでで、祈りが答えられる確実性と、答えられない例外があることをヤコブ書から見てきました。
しかし、今日のマタイの箇所では、例外にはいっさい触れずに、「求め続けるよ!絶対に答えられるから!」と、求める重要性を強調しています。
なぜでしょうか?
それが今日の最も重要なポイントです。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。

聖書(マタイ7:11)

神様は、私たちの祈りに何を持って答えられるのか?
それは、「良いもの」なのです。
言い換えるなら、「本当に良いもの」です。
私たちが求める良いものではなく、私たちにとって神様が思う本当に良いもの。
それは、何でしょうか?

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

聖書(ルカ11:13)

聖霊です。
私たち全ての人にとって、例外なく、良いものは、神の霊である、イエスキリストの霊である聖霊です!
人間にとって最も幸せは、神との親密な関係。
聖霊があなたのうちに住むと言う特権です!

その聖霊が、私たちが仕事する時も、寝ている時も、遊んでいる時も、一緒におられ、あなたを喜ばれる。
人生の良い時も、悪い時も、ともにおられ、導いてくれる。守ってくれる。むしろ、あなたのために祈ってくれる。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

聖書(ローマ8:26)

御霊と聖霊は同じ意味です。
むしろ、私たちが何を祈れば良いかわからない時にも、代わりに最善の祈りをしてくださる。
すごくないですか?
しかも、みなさん。キリストを信じるものは、すでにこの聖霊が与えられているのです!
信じていない人がいるなら、キリストを信じてください。
その瞬間、あなたの心に聖霊が来られます。

もういるからいいやでもありません。
この聖霊に満たされ続けるように、日々、神を求める信仰による祈りが重要なのです。
みなさん、私たちが祈りによって求めるべき「良いもの」は、神が与えられる「何か」ではありません。
全てを持っておられる「聖霊様ご自身」を求め、慕うことです。
神と親しく歩む人生こそ、全てです。

ちなみに、11節の「良いもの」と言うギリシャ語はアガソス。
「有益な、有利な、助けとなる」 と言う意味で、この言葉は人格を指す場合もあり、「崇高な生まれの、能力のある、 仕えてくれる」とも言います。
これにぴったり当てはまるのは、神ご自身、聖霊ですね。

まとめ

今日の箇所でイエス様が言われたことは「祈れば、必ず聞かれる」と言うことです。
強調は、祈りの確実性です。
ヤコブ書には、2つの理由が書かれています。

  1. そもそも求めていないから
  2. 悪い動機で求めているから

だからこそ、神に熱心に、「求めなさい。探しなさい。たたきなさい。」とイエス様は進められています。
その上で、そもそも、必ず答えられる祈りとはそもそも何かを明らかにされました。
それは?聖霊です。

みなさんは、何を求めて祈っていますか?
神ご自身を求めて祈っておられるでしょうか?
聖霊の満たしを求めて祈っていきましょう。

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