山上の説教⑯ 「復讐心からの解放」(マタイ 5:38-42)

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はじめに

「復讐代行」という業者があるのをご存知でしょうか?
不倫・浮気相手に対して、別れた相手、隣人トラブルや会社の同僚、ママ友トラブルなど多岐にわたって、プロが「あなたの代わりに復讐します」というビジネスらしいです。
あるウェブサイトにはこのように書かれていました。

復讐代行が依頼者に代わって制裁のような復讐は、復讐したい相手が苦しみ苦労していく様子を見ることで、貴方の悩みから解放されます。
本物の復讐代行とは、被害者が泣き寝入りしないで気持ちを晴らすことが可能な唯一の理解者でもあります。

本当でしょうか?
相手に復讐できれば、本当に心がスッキリするでしょうか?
悩みから解決するのでしょうか?
復讐代行は、唯一の理解者なのでしょうか?
面白いことに、NHKで「タリオ 復讐(ふくしゅう)代行の2人」というドラマがスタートしました。
10月9日(金)[総合][BS4K]後10:00からです。岡田将生主演です。
復讐代行というビジネスや、ドラマは、今の世の中の動きを表しているのかもしれません。

みんな面ではニコニコして、上司や嫌な人とうまくやりますが、陰では多くの人が「くそ!この野郎!」と怒りを覚えている。
そして、いつか相手に復讐したい!でもできないという行き場のない復讐心が鬱積している。
しかし、これは他人事ではないのです。

なぜなら、イエス様も、この「復讐」についてのメッセージを何度もしています。
むしろ、キリスト教の福音は、「怒りと赦し」と言っても過言ではありません。
今日は、「復讐心からの解放」というタイトルでともにイエス様の山上の説教から学んでいきましょう。

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「復讐心からの解放」とは?

はじめに、イエス様は、旧約聖書の律法について話されます。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

聖書(マタイ5:38)

社会の教科書で習ったのを思い出しませんか?
「ハムラビ法典」です。「比例復讐法」
ハムラビ法典は、紀元前1800年の法律ですが、本来の意図は際限のない復讐に歯止めをかけることでした。
嫌なことを言われただけで、死刑を要求するのは、公平ではないということです。
「目にはいのちを」と言うのではなくて、「目には目を」とあるところに、公正な判断がなされているのです。

しかし、ここでイエス様が「と言われていたのを、あなたがたは聞いています」とは、ハムラビ法典ではありません。
旧約聖書の律法のことです。
同じ内容が、出エジプト記やレビ記に出てきます。

目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、

聖書(出エジプト記21:24)

骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。

聖書(レビ記24:20)

この律法の真意は、ハムラビ法典に近く、歯止めの効かない「復讐」を抑えることにありました。
しかし、律法学者の中には、復讐しなければなりませんと教えていた人もいました。
そこで、イエス様は、「離婚や姦淫、誓い」と同じようにより高い基準を示されます。
モーセ律法の本来の解釈です。

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

聖書(マタイ5:39)

「右の頬を打たれる」とは、「侮辱的な行為」です。
今、ここで隣の人にやってみてください。
大切な友人を一瞬で失うでしょう。
「悪い者に手向かってはいけません」という限り、どうみても相手が悪いのです。
「自分は悪くない」「そんなことされる、言われる筋合いは全くない」「相手がどう考えてもおかしい」

その状況で、イエス様は、左の頬も向けなさいと言っています。
「侮辱されたら、侮辱され続けろ」と。
理解不能です。
実は、「右の頰を打つ」とは当時のイスラエル人が聞けばもっともっと侮辱的な意味合いがあります。

右の頰を打たれることは本来あり得ません。
右利きが多く、右の手で頰を打てば、打たれる人は左の頰を打たれることになるはずです。
ではなぜイエスは、右の頰を打たれたら左の頰も向けるように教えられたのだろうか。
それは、右の頰を打つということは、打つ人が左手、あるいは右手の甲で打つことだからです。

右手の甲で相手の頰を打つ行為は、イスラエルではかなり重い侮辱を表しました。
そうされた場合、相手を同じようにして打つか、裁判所に連れて行き400デナリの罰金が課すことができました。
当時の一般労働者の一日の賃金が 1デナリだったことを考えれば、現代で言うと400万円ほどです。

つまり、正当に訴えれば400万円をもらえるほどの、侮辱的行為や損害を被っても、
「耐えて、むしろ左の頰も向けなさい」と教えておられるのです。
こんなこと、できる人いますか?
ここでイエス様は、社会における悪や不正を放置しなさいということを言っているのではありません。
イエス様は役人による不当な平手打ちに抗議しました。

イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」

聖書(ヨハネ18:23)

正規の手続きなしにむち打たれ牢につながれたパウロとシラスも抗議の声を上げています。

しかし、パウロは警吏たちに言った。「長官たちは、ローマ市民である私たちを、有罪判決を受けていないのに公衆の前でむち打ち、牢に入れました。それなのに、今ひそかに私たちを去らせるのですか。それはいけない。彼ら自身が来て、私たちを外に出すべきです。」

聖書(使徒16:37)

ここで、イエス様が言いたいことは何でしょう?
それは、「復讐心からの解放」です。
むしろ、40節以降を見ると、復讐心どころか、他の様々なものからも解放され、自由にされた姿が描写されています。

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。

聖書(マタイ5:40)

当時、下着は担保に要求されることがあったが、上着は寒い夜に毛布代わりに使う人もいて、質にとることが禁止されるほど(出22:26-27)大切な物でした。
私たちは、もらっただけ与え、与えたよりも多くもらおうと考えがちですが、主は、もらうよりも与え、もう一つ 与えよと言われました。

あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。

聖書(マタイ5:41)

1ミリオン=1.6km。
当時、ローマは強制的に、イスラエル人を荷物運びのために軍隊で働かせることができました。
毎日をやっと生きている人にとっては負担でしたが、そんなときは、2ミリオン行けというのです。

求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。

聖書(マタイ5:42)

何でも与えればよいという教えではなく、自分の所有物に対する執着から解放された姿です。
このような生き方は、人よりも多く持つことが成功だという世の中の価値観からすると、馬鹿げたもののように思われますが、主は弟子にこのような生き方を望んでおられます。
しかし、実際はこのような生き方が1番最強なのです。

39節:侮辱からの解放
40節:常識からの解放。
41節:命令からの解放
42節:所有からの解放。

この野郎!と復讐することからの解放へとつながるのです。
ここで、イエス様が求めておられる神の国の基準は、「福音によって真に解放された人」なのです。
私たちが不幸を感じたり、落ち込んだり、ストレスを感じたりする時というのは、実は何かに縛られている時です。

すぐにカチンとくるのは、低い自己評価、つまり、劣等感に縛られているとも言えます。
あるいは、「こうでなければならない」という自分の正義に縛られているとも言えます。
いつも不平不満が口から出るのは、自分の権利に縛られているとも言えます。
手放すのが怖いというのは、「所有しているものがなくなる恐れ」に縛られているとも言えます。

それらのものに縛られず、自由に生きている人が、本当に幸せなのです。
実は、先ほどの解放は、「自分が思っていること」からの解放です。
相手に侮辱するつもりがない場合や他の人から見れば何も問題がない場合も多いからです。

39節:(自分が)侮辱(されていると思うこと)からの解放
40節:(自分が)常識(だと思うこと)からの解放。
41節:(自分が)命令(されていると思うこと)からの解放
42節:(自分が)所有(していると思うこと)からの解放。

問題を問題とするのは、私たちの反応だということです。

31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

聖書(ヨハネ8:31-32)

真理が私たちを自由にします。
真理とは何ですか?

「わたしのことば」つまり、聖書のみことば、福音です。
福音とは何でしょう?

19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

聖書(ガラテヤ2:19-20)

福音とは、死ぬことです。
死ねば、生きるのです。
私たちが、復讐心を手に握っている限り、肉に死ぬことはできません。
人から侮辱され、怒りの拳を振りかざしてたい時、十字架の前に出るのです。
そうすれば、あらゆる罪の束縛から来る苦々しいストレスから解放されます。
右の頬を打たれて、怒らない人はいません。
しかし、神様は、その怒りを十字架につけなさいと言われるのです。

もう一度言います。
死んだら、生きるのです。
死ななければ、復活はありません。
頑張って死ぬ必要はありません。

キリストが死なれました。
しかし、私たちは信仰によって、私たちの怒りや権利すらも、キリストともに十字架につけられたと受け入れるのです。
そうすれば、同じ信仰によって、私たちはキリストとともに復活し、新しい人を着て、内側に住まわれる御霊の実を結ぶことができるのです。

まとめ

イエス様は、右の頰を打たれたら左の頰も向けるように言いました。
つまり、「侮辱的なこと」をされても、そのままにしなさいと。
なぜか?
それは、私たちが「復讐心からの解放」されるためです。

下着を取られても上着まであげる。
1キロ無理やり働かせられたら、2キロ余分に働け。
求めれば与え、頼まれたら貸してあげなさい。

これは、復讐心だけでなく、

39節:(自分が)侮辱(されていると思うこと)からの解放
40節:(自分が)常識(だと思うこと)からの解放。
41節:(自分が)命令(されていると思うこと)からの解放
42節:(自分が)所有(していると思うこと)からの解放。

を表しています。
このようなものから解放された人からは、復讐心は生まれません。
どうやったら、イエス様が求めておられる「真に解放された人」になることができるのか?

それは、福音によってです。
十字架で死ぬことです。
キリストとともに死んで、キリストとともに生きるのです。

今日、もう一度、福音に戻りましょう。
これが原点です。
死んだはずなのに、生きている肉があるから、問題が起こるのです。
祈りましょう。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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