山上の説教㉟ 神に知らないと言われないために「〇〇していない人は救われていない」(マタイ7:21-23)

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はじめに

ニコラスケージ主演のレフトビハインドという映画を見たことがあるでしょうか?
この映画は1995年に発売された小説が元となっており、公式サイトによればアメリカで6,500万部を売り上げたそうです。

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レフトビハインドとは、「取り残される」という意味です。

何の前触れもなく、世界各国で数百万もの人間が消失します。
イエスキリストを信じていた人は携挙され(天に引き上げられれて地上から消失)、信じていなかった人は地上に取り残されて、世の終わりの患難時代を通ることになるということです。

ちなみに、ニコラスは取り残され、クリスチャンである奥さんは消えます。
その中で印象的だったのが、残される牧師です。
「牧師として、みんなの前で聖書を教えている人が実はなんちゃってクリスチャンだった」と言う設定です。
私は、これは本当に起こると思います。

人は外側しか見れませんが、神様は心を見ておられるからです。
世の中の宗教で救いの確信はどうやってあるのか?
あるお坊さんは、「これで正解」というものを正直見いだせるというものではないと言っておられました。
イスラムの人も「救いの確信はなかった」と言ったそうです。

クリスチャンはどうでしょうか?
キリスト教徒は世界で23億人。世界の三分の一。
果たして、その中に本当に救われている人は何人いるのでしょうか?
今日のメッセージを聞けば、どうすれば救いに至るのかを知ることができます。
「自分はどうなのか?」と思われた方は、ぜひ、今日の話を聞いて確信を得て、帰ってください。

このチャンネルでは、聖書の終末預言シリーズという世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当てた動画や、人生に適用できる3分間の聖書のメッセージ動画をアップしています。聖書に少しでも興味のある方、人生を変えたい方は、チャンネル登録をよろしくお願いします。

救われていない人の2つのたとえ

今日の箇所で、イエス様は、2つのタイプの人の話をされます。
結論から言うと、両方のタイプも、救われていない人の例えです。

①口先だけで行いのない人

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

聖書(マタイ7:21)

「主よ」とは、よくクリスチャンが使う言葉で、賛美歌や聖書にも出てきます。
これは、神様の名前を表しています。
なので、クリスチャンは、「神様」という意味で、「主よ」と使います。
ギリシャ語では、キュリオスといい、「神、支配者」と言う意味を持ち、当時、人々はローマ皇帝に使っていました。
ローマ皇帝は自分こそ神、すなわち「主」であると公言したためです。
なので、当時の教会において「イエスが主(キュリオス)」であると告白することは、自分の首が飛ぶことを覚悟しなければなりませんでした。

まず、この「主」という言葉は、それだけ重い意味を持つと言うことを覚えてください。
その背景を知っていれば、『主よ、主よ』と言う人は、かなり、素晴らしい信仰を持っているように見えます。
死を恐れずに告白しているからです。
しかし、口でどんなに告白しても、それで救われる訳ではないとイエス様は言われます。
「その人が口で言っていることを、行っていない場合があるからです」

②行いがずれている人

22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

聖書(マタイ7:22-23)

では、行っていれば良いのでしょう?
そうとも言えないのです。
預言や悪霊追い出し、奇跡は、良い行いです。
出エジプト記に登場するエジプトの魔術師たちも、杖を蛇に変えたり、モーセと同じことができました。
同じように、世の中の宗教で、奇跡は起きます。
占いが当たる時もあります。
しかし、聖書は、それは救いに至る行いではないと言っています。
むしろ、そのような行いで、救いを証明できないと言うことです。

イエス様は、

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

聖書(マタイ7:21)

「父のみこころを行う」ことが救われた人の行いです。
「父のみこころを行う」ことが救いの条件なのではありません。
順番が違うのです。
何が言いたいのか?
→救いには、新生(キリストにあって新しく生まれ変わっているか?)が大事だと言うこと。

新生とは、
①イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架上で死なれ、
②墓に葬られ、
③3日目に復活された。
このことを信じますと心に決め、告白した瞬間に、その人の内側で起こることです。
それを、「霊的に新生する」言うのです。
つまり、キリストを信じる信仰によって、新しく生まれ変わっているか?と言うことです。

しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

聖書(マタイ7:23)

「わたしはおまえたちを全く知らない」→客観的な事実として救われていないと言うこと。
いのちの書に名前が記されていない。
つまり、そもそも救われていない。スタートもしていない人。
なぜ、そんなことがおこるのか?
本当の意味で、福音を受け入れていないから。
「不法を行う者たち」という厳しいことさえ言われています。
「不法」と訳された「アノミア」は、単に律法を破るだけではなく、イエス様が山上の説教の中で教えられた神の御心を行わないことを意味します。

つまり、
①口先だけで行いのない人
②行いがずれている人

これらの人は、「新生」していない人。
実は、キリストを信じていない人。
内側に聖霊がいないので、結果として口先だけになり、行いもズレているのです。
これが「なんちゃってクリスチャン」です。
イエス様は、「なんちゃってクリスチャン」が多く存在すると言う事実を、明らかにされたのです。

例えば、教会に所属していれば、新生しているかと言われれば、NOです。
「福音を受け入れていないならば、救われていません」
例え、洗礼を受け、熱心に教会に通い、献金を捧げていても、その人が救われているとは限りません。
また、ボランティアを熱心に行って、宗教的儀式を行っているからといって、救われているとも限りません。

外面的な行為は信仰がなくても行えます。
世の中には、キリストを信じていなくても、人格的に素晴らしい人はたくさんいます。
熱心に、ボランティアをし、貧しい人を助け、社会に貢献している方はたくさんいます。
頭が下がります。尊敬します。

でも、その人が、神にあって新生しているかは別問題なのです。
「主よ、主よ」神の名を呼んで、熱心に祈っても、新生していなければ、神はあなたを知らないと言うのです。
キリストの名を使って預言をして、悪霊を追い出し、奇跡を行っても、新生していなければ、神はあなたを知らないと言うのです。
ここまで聞いて、「私はどうかな?」と心配になりますよね?

皆さんが、次のことを信じているなら、救われています。
①イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架上で死なれ、
②墓に葬られ、
③3日目に復活された。
不安に思う必要はありません。
安心してください。

イエス様の言葉から逆に言えることは、救われると言うことは、難しいことではないと言うことでもあります。
人は、恵みと信仰によって救われます。救われた人は、自動的に霊的に新しく生まれます。
ここに人間の努力や善行は不要です。
善行するなと言うことではありません。
しててもいいですが、神の救いにはまったく影響しません。

パウロは、 コリント人への手紙第二5:17でこう言っています。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

聖書(2コリント5:17)

キリストのうちにあると言うのは、キリストを信じ、神を心に受け入れることです。
『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではないんです。
新生して、父のみこころを行う者は『主よ、主よ』と告白するのです。
順番が違うのです。
本当の意味で「主」と言う告白すらも、新生されていないと言えないのです。

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

聖書(1コリント12:3)

まとめ

今日の箇所でイエス様が、あげた2つのタイプの人。
①口先だけで行いのない人
②行いがずれている人
これらの人は、「新生」していない人です。
「新生」していなければ、どんないい人でも救われません。

つまり、一番のポイントは、
→救いには、新生(キリストにあって新しく生まれ変わっているか?)が大事だと言うこと。
新生とは、
①イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架上で死なれ、
②墓に葬られ、
③3日目に復活された。
このことを信じますと心に決め、告白した瞬間に、その人の内側で起こることです。
それを、「霊的に新生する」言うのです。

最後に、救いの土台となる聖書の箇所を読みましょう。

9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11 聖書はこう言っています。 「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。

聖書(ローマ10:9-13)
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