油注ぎって何?神の働きに不可欠な力「認められずに落ち込んでいませんか?」

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はじめに

今日は、聖書の中に書かれている、「油注ぎ」について解説します。

私たちは、「誰かに認められたい。自分のしていることに正しく評価してもらいたい。」という思いを考えてしまうものですよね。こんな思いのことを、「承認欲求」と言います。この思いは大人特有のものではなくて、小さな子供でもあるそうです。例えば、「パパ、ママ、これ見て!見て!」と必死にアピールするのは、自分をほめてもらいたいという気持ちがあるからだそうです。人の価値を評価によって決ることが多い私たちにとっては、承認されるということは、その場の自分の立場だけでなく、もっと深い部分の自分のアイデンティティーさえも左右しかねない、大きなことですよね。

この記事にある油注ぎの意味がわかるようになれば、承認欲求の満たしがどこからくるのかを知ることができます。それによって、揺るがない人生の土台を持つことになります。

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聖書は油注ぎについて何と言っているのか?

結論を一言でいうと、 油注ぎは神の働きのために選ばれたことのしるし です。

神さまの働きに任命された者に油注がれる

そもそも、聖書で油と書かれているのはオリーブ油のことで、生活の様々な場面で使われていました。その役割は大きく分けて3つあります。

  1. 灯りをとる等の日常の為
  2. 薬としての役割
  3. 神殿での特別な役割

聖書の時代において、神さまの存在は国を治める上で無くてはならないものであり、神殿での働きをする祭司、神の言葉を人々に語る預言者、そして王様は、それぞれが特別に大きな役割を果たしました。
それら、神の祭司、王、預言者となる者に、神さまが油注がれた、と聖書には書かれています。
最初に油が注がれたのは、エジプトから60万人以上のユダヤ人を脱出させる偉大なリーダーとなったモーセの兄弟、アロンとその息子達です。

祭壇の上の血と、注ぎの油を取って、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束にかける。こうして、彼とその装束、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなる。

聖書(出エジプト29章21節)

アロンとその息子たちは代々にわたる神の祭司職に任命される時に、油が注がれました。

またイスラエルの中でも秀でた王であったダビデが王が、将来の王として選ばれる時にも油が注がれました。

サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼(ダビデ)に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。

聖書(1サムエル16:13)

ちなみに、選ばれた彼らがスーパーマンのような特別な能力を持っていたわけではありません。ダビデを例に見てみますと、神の預言者サムエルがダビデの父であるエッサイに、神の御用をともにする者を、息子たちの中から一人を選ぶと言われた時に、他の兄弟と違い、ダビデだけは呼ばれなかったほど親の目から見てたいした特徴がないものでした。
しかし、そんなダビデにも神さまは目を留め、彼に油を注ぎ、後には将来の王と定めたのです。

神さまは、神の御用に任じられる前段階において人に油を注がれていますが、実は、救い主イエス・キリストを信じる人々にも油は注がれています。聖書にこのように書かれています。

私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。
神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。

聖書(2コリント1:21~22)

ここでの「私たち」はイエスキリストを救い主として信じるクリスチャンのことですので、神様は神の働きをする祭司、王、預言者に油を注がれたのと同じように、神を信じる人々に油を注がれることがわかります。
このことをとおして、神さまが人々をどのように見られて、考えておられるかが明らかにされています。
すなわち、神さまの目から見て一人ひとりが特別な存在であり、神さまの大切なご用をするように選ばれているということです。

油注ぎによって神さまとの関係はどのようになりますか?

油注ぎによる変化の一つ目は神さまとの関係が変えられるということです。

神さまに属するものとなる

祭壇の上の血と、注ぎの油を取って、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束にかける。こうして、彼とその装束、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなる。

聖書(出エジプト29章21節)

このことを語られた神さまは完全に聖なるお方です。このお方が、油注がれた者が聖なるものになる、と言われていますが、人はだれもが罪びとで「聖」ではありませんし、どんなに自分の力で頑張っても自分を「聖」とすることはできません。

しかし、そのような人であったとしても、聖書は、油注がれたものは「聖なるもの」だと認め、聖なる神の側にその人を移して立たせましょう、と神さまの側からの一方的な宣言を記しているのです。ここに神さまの憐れみと、神さまの人への思いが、豊かに現わされています。

そして、この恵みは、イエスキリストの十字架の御業によって、完全に明らかにされました。イエスキリストの十字架の犠牲を信じ、自分のが罪びとであると告白する者を、一方的に罪のないものとみなしてくださったのです。

神の働きをするための神の力が下る

サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼(ダビデ)に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。

聖書(1サムエル16:13)

人が、何かを持ちあげる時には支える力が必要なのと同じように、神さまの働きをするには、神さまの力がその人には必要です。この力もダビデに激しく下ったと記されているように、神さまが私たちに力を与えます。

油注がれたものには神の守りがある

私は知る。主が主に油注がれた者を救ってくださることを。右の御手の救いの御力をもって聖なる天からその者に答えてくださることを。

聖書(詩篇20: 6)

神さまは聖なるものとし、神の側に付けた人のことを最後まで責任を持って、守って下さるお方です。もし、その人が強大な力を持った敵に対する時があれば、神が天から手を伸ばし、救い出してくださるのです。

油注ぎによって人との関係が変わりますか?

油注がれた者は周りに影響を与える人へと変えられ、人々に良い知らせを伝える者となります。

神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

聖書(イザヤ61:1)

たとえネガティブな思考回路を持っている人であったとしても、神の油注ぎを受ける時、その口は滑らかになり、不平不満を話していた口が人々にとっての良いニュースを伝える口に変えられるのです。しかも、その口から語られた良いニュースはただ語られるだけではなく、そのニュースを聞いた人も癒しをうける、解放されると記されています。
神の側に立つものから語られる言葉には力が伴うようになるのです。

油注がれた者は、神さまとの関係が変化し、その人の口から出る言葉が変化します。それだけではなく、その口からでた言葉を聞いた人々によい変化をもたらすようになるのです。

まとめ

結論を一言でいうと、 油注ぎは神の働きのために選ばれたことのしるし です。

1.油注ぎによって、人は神のご計画の実現の一端を担うようにされる
2.油注ぎによって、人は聖いものとなり、神の側に立つものにされる(聖別)
3.油注ぎによって、その人が変えられ、その人の周りにも良い影響を与えるようになる


参考:聖書辞典(いのちのことば社)
   新キリスト教辞典(いのちのことば社)

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