山上の説教⑱ 「完全でありなさいってどういう意味?」(マタイ 5:48)

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はじめに

芥川龍之介の児童向け短編小説「蜘蛛の糸」のストーリーです。

ある日お釈迦様が地獄をのぞくとカンダタという極悪人が苦しんでいました。
お釈迦様は池から一本の細い蜘蛛の糸をたらして、カンダタを助けようとしました。
カンダタが糸をのぼっていくと、後から救われたい罪人が下からどんどんのぼってきます。
カンダタが「これは俺だけのものだ」と叫んだ瞬間、糸が切れてカンダタも地獄に戻ってしまいました。


この物語は、世の中の宗教の特徴をうまく表しています。
それは、天国に入るためには、人間が下から上に上っていかなくてはいけないということです。

例えば、イスラム教は、善行が多ければ天国に行けると教えています。
1日5回アラーの神に祈る。収入の2.5%を寺院に納める。断食を守る。感謝のいけにえ(牛、鶏、羊等)を献げるなどです。
しかし、あるイスラム教徒はこのように言いました。
「そのようにして戒律を守っても、罪が赦され天国に必ず行けるという救いの確信がない」

では、世界で22億人いると言われているキリスト教は、「天国に行くための救いの条件」をどのように教えているでしょうか?
イエスキリストを信じる?信仰を持つ?十字架?
本当にそうなんでしょうか?

今日の聖書の箇所を一緒に読んでみましょう。

ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

聖書(マタイ5:48)

あれ?って思いませんか?これはイエスキリストの言葉です。
「信じるだけで救われる」はずの福音をといたイエスキリストが、「神のように完全でありなさい」と言っているのです。

実は、冒頭の「蜘蛛の糸」を書いた芥川龍之介は「西方の人」というイエスを題材にした作品を書いた後、自殺しました。
枕辺には聖書が置かれていたと言います。
太宰治もそうですが、実は、聖書を読んで、もっと苦しくなる人も多いのです。

それは、今日の箇所の「神のように完全でありなさい」と言ったような言葉で混乱し、自分を責めてしまうからです。
今日は、この箇所でイエスキリストが本当に言いたかったことを説明します。
それが理解できると、この分厚い聖書が「1番伝えたいこと」神様の最も大切なメッセージを受け取ることができます。

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完全でありなさいってどういう意味?

ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

聖書(マタイ5:48)

ここでの「完全である」とは、道徳的に罪を全く犯さない完璧なスーパーマンになりなさいという意味ではありません。
同じ内容が記されたルカの福音書のことばを見ると理解しやすくなります。

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。

聖書(ルカ6:36)

つまり、ここでキリストが本当に言いたかったことは、「神が不完全な私たちをあわれまれたように、私たちも他人に対してあわれみ深くなること」です。
あわれみ深いとは、「他人の辛さや苦しみに同情し、いたわろうとする心にあふれているさま」です。
他人にあわれみ深くなることは、聖書の1番大切なメッセージでもあります。

もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。

聖書(ヤコブ2:8)

この分厚い聖書で1番大切な神様のメッセージは、「神を愛し、隣人を愛すること」です。
つまり、あわれみ深くなること。
「完全」というギリシャ語(テレイオス)は、他の箇所では「成熟」と訳されています。
つまり、スーパーマンになることではなく、他人に優しく憐みに満ちた人こそ、神の心を悟った成熟した人、つまり、完全な人というわけです。
聖書には、「こうしなければならない」とか、「こうしてはならない」という戒めが多く出てきます。
旧約聖書で、それらの戒めは律法と呼ばれます。

ここから、「道徳的なスーパーマンになれと言われているような」勘違いが生まれるのですが、律法の本来の目的は、「他人にあわれみを持つこと」です。

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

聖書(ガラテヤ5:14)

もうちょっと、わかりやすく説明します。
私たちの生きている社会には法律があります。
信号を無視したら、違反切符を切られます。
でも、考えてみて欲しいのです。
法律の目的は何でしょうか?

切符を切ることではないですよね?
法律を守っている人が出世をして、認められ、すごい人になることでももちろんありません。
みんなが助け合って、譲り合っていくためです。
法律がなければ、必ず誰かが割りを食います。
そして、法律を守るか、守らないかだけに焦点を当てると、裁きあうことになります。

こないだ駐禁で捕まった夫人がいました。警察が「今度から気をつけてくださいね」と言っていた。
おそらく、反則切符は切っていない。とても良いと思った。
切符を切ることが目的ではなく、事故や犯罪を減らすことが目的だからです。

しかし、私たちがは事故や犯罪を減らすことを手段にして、切符を切ることが目的になる場合がある。
実は聖書の律法も同じなんです。
守った守らなかっただけに焦点を当てると、守れないもの同士が裁きあうことになる。

律法の目的は、私たちがたまに信号無視してしまうことがあるように、神の基準を守れない存在であることを認めること。
そして、ちゃんと律法を守って、他人に愛を示すことにあるのです。

先週までに見てきたイエス様の6つの律法の解釈も、共通点があります。
すべて相手との関係をもとに解釈されています。

殺人(5:21-26)相手を傷つける自分
姦淫(5:27-30)相手だけを愛せない自分
離婚(5:31-32)相手に我慢できない自分
誓い(5:33-37)相手を裏切る自分
復讐(5:38-42)相手を赦せない自分
愛(5:43-47)特定の人だけ愛する自分

しかし、私たちの実生活に目を向けていくと、完全に基準を守れない上に、私たちは他人に憐み深くないことに気づきます。

職場のストレスの60%以上が人間関係。
人間関係でストレスを感じる原因は、結局のところ、「自分には完全な愛がない」ということなのです。
誰も、傷つけずにいられればどんなにいいでしょうか?
結婚相手だけを誠実に愛し続けることができたら。
相手の欠点を赦す愛があれば。
家族に対する愛で、他人をも平等に愛せたら。

ストレスとは無縁になります。
みんながそうであれば、きっと、世界は平和で素晴らしいものになります。
しかし、現実はどうでしょう?
理想とは、逆の自分を発見するのです。
結婚したら、問題がもっと見えてきた。
牧師になったら、もっと自分の愛のなさを実感した。

芥川龍之介の蜘蛛の糸のように、自分だけが助かりたい。損したくない。自己中心の愛。
自分を本気で直視すれば、聖書が取り扱っている罪にたどり着きます。
じゃあ、どうすれば良いのか?
結局、私たちは人間関係の問題を解決できないのか?
神の求める完全さ、憐み深くなることはただの理想論なのか?

聖書は、私たちは「憐み深くなることができる」と言っています。
しかし、自分の力ではなく、神の力によってです。
そのためには、聖書が教える3つのステップを通過する必要があります。

自分にも他人にも完全を求めることをやめる

この第一段階は、現実を直視するステップです。
絶望のステップとも言えます。

完全ではない自分を認めるステップです。
完全ではないとは、愛がない、あわれみがない自分を認めることです。
これは、他人にも言えます。
私たちは、他人に期待し、求め、それが裏切られて、怒ります。傷つきます。
相手にも完全な愛を求めることをやめることです。

これは、問題を避けて、社会を冷淡に見つめる「ニヒリズム」とは違います。
このステップで終われば、聖書を読んで絶望し、自殺する可能性だってあります。
しかし、聖書は次の希望のステップがあるのです。
死んで、復活があるように、絶望の先には希望があるのです。

神の完全な愛を求める

愛が注がれ、コップから溢れる時に、周りに愛が流れます。
自分が満たされていなければ、他人は愛せません。

私たちは、本を読んだり、良い人になろうと人間の愛で愛そうと努力しますが、いつか燃え尽きます。
コップの水を誰かに飲ませ続けると自分が枯渇するのです。
あなたも水を飲まなければ渇くのです。
「なぜ、自分ばっかり頑張っているの?」
「なぜ、誰も自分を労ってくれないの?」
大切な家族であっても、子供であっても、ほったらかしにして逃げ出したくなる時だってあるのです。

あなたは、優しい人です。頑張っています。
でも、神の愛で満たされる必要があるのです。
神の愛によってコップを満たすには、不完全な自分が神にどれだけ愛されているかを知ることが不可欠です。

世界の宗教はみんな自分が上っていこうとします。
しかし、キリスト教では、神が降りてきたのです。
それが、人としてお生まれになったイエスキリストです。
キリストは、神の基準に達することのできない私たちを救うために十字架にかけられました。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

聖書(ローマ5:8)

殺人(5:21-26)相手を傷つける自分
姦淫(5:27-30)相手だけを愛せない自分
離婚(5:31-32)相手に我慢できない自分
誓い(5:33-37)相手を裏切る自分
復讐(5:38-42)相手を赦せない自分
愛(5:43-47)特定の人だけ愛する自分

これらは、結局、自分中心に生きてしまい、お互いを傷つけてしまう罪が原因です。
しかし、キリストは代わりにその罪の罰を受けられたのです。
不完全な姿で神の前に出るなら、私があなたの不完全な言動すべてを負ったから、あなたは私の目には完全だよと言ってくれるのです。
これが、神のあわれみです。

だから、まずステップ1が悟れないといけません。
自分が、どれだけ不完全か。罪があるか。人を傷つけ、傷ついちゃう存在か。
人生をうまくコントロールできない存在であるか。
それを悟り、初めてステップ2の扉が開かれるのです。
そんな自分を神は裁かず、責めずに、憐んでくださったことを悟るのです。
代わりに神が十字架で裁かれ、責められた。
私たちを愛しているから。

自分にも他人にもあわれみ深くなる

これは、神の愛で満たされた人の結果です。
ステップ2をすっ飛ばして、3に飛ぶと、人間の愛で愛そうとするので、必ず、バランスが崩れ、誰かを傷つけ、自分も傷つきます。
自分も他人を、さばくことから解放されます。
相手は相手と無関心になることでもありません。
積極的に赦し、包み込み、愛するようになるのです。

憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう。

聖書(箴言10:12)

まとめ

この箇所でイエスキリストが本当に言いたかったことは、「神が不完全な私たちをあわれまれたように、私たちも他人に対してあわれみ深くなること」です。
この分厚い聖書が「1番伝えたいこと」、神様の最も大切なメッセージは、「神だけではなく、他人を愛すること」なのです。

どうすれば「憐み深くなることができる」のか?
聖書が教える3つのステップを通過する必要があります。

① 自分にも他人にも完全を求めることをやめる
→自分の不完全さを直視する
② 神の完全な愛を求める
→神のあわれみを体験する
③ 自分にも他人にもあわれみ深くなる
→コップから神の愛が流れ始める

今、人間関係で問題を抱えていますか?
相手を傷つける自分
相手だけを愛せない自分
相手に我慢できない自分
相手を裏切る自分
相手を赦せない自分
特定の人だけ愛する自分
夫婦、親子、家族、職場、友人、教会の中で、問題を感じるなら、ステップ2に進みましょう。
自分の問題を素直に神に告白し、イエスの十字架を受け入れ、神のあわれみをたっぷり体験しましょう。

解決は、他の人が変わることではありません。
まず、私たち自身が変わることで、すべての人間関係が変わるのです。

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