山上の説教㉗ 富に対する教え②「お金の主人か、お金が主人か」(マタイ 6:22-24)

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はじめに

老後2000万円問題。最近、多く耳にします。
年金をもらったとしても2000万も足りなくなるということです。
そう思うと不安になりますよ。
もちろん、老後のための資産形成は重要です。

でも、どうでしょう。
人生のほとんが、お金を貯めることに縛られるなら、その人は本当に幸せなのでしょうか?
必死に、20代から生活費を切り詰めて必死に毎月5万円の貯金を続ければ、60歳までには2000万円は貯まります。
しかし、そのために大事なものを失うかもしれません。

お金の節約の為に、体に安くて添加物モリモリの悪いモノを大量に摂取し、病気になるかもしれません。
お金の節約の為に、ストレスを溜めて夫婦喧嘩をして家族が崩壊するかもしれません。
お金の節約の為に、60歳になった時、お金と引き換えに、大切な若い時の「時間」を後悔するかもしれません。

本来、お金はストレスを解消したり、人生を豊かにするための手段であるのに、いつの間にかお金の為にストレスや不幸を買う構図にもなりかねないのです。
つまり、私たちは知らない間に「お金の奴隷」になっていることもあるということです。

何度も言いますが、貯金は大事です。
しかし、お金に支配されるなら、時間もエネルギーもたくさん吸い取られることに気づく必要があります。
本来、神様と人を愛するために使う時間もエネルギーをお金を得るために使えば、その時間は戻ってきません。
聖書は、「お金の奴隷になるのではなく、お金の主人になりなさい」と言っています。
お金の主人になるには、神を本当の主人にしていることが不可欠です。

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お金の主人になるには?

今日のポイントは一言で言うと「神様が主人の人は、お金に支配されず、いつでもお金を手放せる」ということです。
イエス様は、本来キリストの弟子は、神と富の「ふたりの主人に仕えることはできない」と言いました。

だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

聖書(マタイ6:24)

「できません」が最初と、最後に2回出てきます。
明らかな強調です。
めちゃめちゃはっきり、それはできない。「impossible」不可能である。と言っているのです。
不可能と言われても、私たちはなんとかくそれが可能だと思ってしまいます。
しかし、不可能は不可能です。

一人が2頭の馬に同時に乗ることができないように、2人の主人に同時に仕えることは不可能です。
「いやいや、俺は富に仕えてないよ」と言っても、少しでも富を愛しているなら、もしかすると、富が主人になっているかもしれません。
富50:神50はもちろん、富10:神90もあり得ないと聖書は言っているのです。

私たちがお金の主人なのか、それともお金が主人なのか?ということは、私たちの〇〇を見ればわかります。
なんだと思いますか?
イエス様が、今日の箇所で言っています。
「目」です。
お金と神の両方に仕えることはできないという話の前にイエス様は、目の話をしました。
なんででしょう?
それは、私たちの人生の主人が、神であるか、富であるかは私たちの「目でわかる」からです。

22 からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、
23 目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。

聖書(マタイ6:22-23)

どういうことか説明します。
「からだのあかりは目です」とは、目が健康であれば、光を認識できます。
光を認識してはじめて、光のメリットを享受できます。
一日30分の日光浴は、身体を健康にし、うつ病なでにも効果的です。
その時、光は、皮膚だけではなく、目によって脳に認識されるそうです。

逆に、目が悪いとどうでしょう?
日中、サングラスをずっとかけていたら?
心が暗くなっていきますね。光が身体に入らないからです。
では、目が健康、悪いとはどういう意味なのでしょうか?

もちろんここでの、「目が悪い」とは視力のことではありません。
これは「目」は比喩であり、「目が悪い」ことは、当時の中東では「他の人の所有物をねたむ欲望の目」という言い回しでした。
「もっと欲しい」という貪欲。
「人のものを欲しがる」ねたみ。

それらのようなものがあれば、目が曇ってしまい、光が入ってこない。つまり、結果として、心が暗くなるということです。
一方、健全な目を持っていることは、今までの文脈をみると、富に対して貪欲ではなく、自分の財産を貧しい人に分け与えるすベを知っている人の目を指すと言えます。
目が健康な人は、たくさん与えます。
パウロは、お金の問題を抱えていたコリントの教会に、マケドニアの教会の証をします。

1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
2 彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。
3 私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、
4 聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。
5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。

聖書(2コリント8:1-5)

ギブギブギブです。
パウロは、コリントの教会にも同じように勧めます。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。

聖書(2コリント9:11)

マケドニアの教会のような富に対する健康な目を持っている人は、光が目から入るので、逆に心が喜びで溢れます。
「感謝を生み出す」と書いてある通りです。
つまり、前回のメッセージとも関係しているのです。
健全な目は、宝を天にたくわえる人の考え方であり、悪い目は、反対に地に富をたくわえる人の考え方です。

では、貯金はダメなんでしょうか?
お金のやりくりや、家計簿をつけることも不要なのでしょうか?
そんなことはありません。
地上の富(お金)は単なる手段であり、これを「神と人を愛するために」使い天に宝をつめばいいのです。

では、もっと質問が出てきます。
いくらまで貯めてもいいの?稼ぎすぎはダメなの?どれくらい人のために使えばいいの?
もちろん、聖書の十一献金は、適当な基準です。
しかし、今日の箇所から、少し違った基準をお話しします。
冒頭に読んだ箇所に戻ります。

だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

聖書(マタイ6:24)

神に「仕える」という意味からすると、逆を言えば、富に「支配されない」ということです。
富の奴隷にはならないことが、神に仕える必須条件です。

奴隷とは、縛られている状態。
そのことで日常生活がいっぱいになっている状態。
お金のアップダウンで、精神が不安定になる状態。
目が貪欲で曇っている状態。

一方、お金の奴隷でない状態は、いつでも「手放せる」状態のことです。
天に宝を積むために「捧げる」ということと似ていますが、大切なのは、いくら捧げることだけでなく、「神が命じれば」全部捧げても大丈夫という信仰です。
「神が許されれば」お金が全部なくなっても問題ないという心持ちです。

厳しいですか?
でも、これが本当の幸せの道です。
私たちはお金の奴隷になるために生まれたのではありません。
お金のために、神から与えられた能力や時間を浪費するのはもったいないということを気付きましょう。

私たちはお金の主人であって、お金の奴隷ではありません。
誇り高き、神のしもべであり、お金は単なる手段です。
天のお父さんは、超お金もちです。お金の心配なんて本来ないのです。
お金の奴隷になっている残念な人が聖書に出てきます。

あるお金持ちがイエス様の元に来て、このように聞きました。
「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
イエス様は、戒めを守りなさいと言いました。
すると、そのお金持ちは、このように答えます。
聖書から読んでみましょう。

21 するとその人は言った。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
22 イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
23 彼はこれを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
24 イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。
25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

聖書(ルカ18:21-25)

金持ちの青年が、イエス様に従います!律法は全部守っています!と意気揚々に言いましたが、彼がお金を人に与えることは他の何より難しかったようです。
彼は、結局、お金を手放せずに、イエス様から去って行きました。

私たちは彼の気持ちに同情できます。
しかし、彼は大きなミスを犯しました。
お金よりも、永遠のいのちを低く見積もったからです。
目が悪くなっていると、本当に価値のあるものを失うのです。

逆にお金の奴隷ではなく、神のしもべになっている人も聖書に出てきます。
ダビデは、神殿建設のために、王としての経費ではなく、自分の財産から捧げました。

そのうえ、私は、私の神の宮に対する喜びとして、聖なる宮のために準備したすべてのものに加えて、自分の宝としていた金銀を、私の神の宮のために献げる。

聖書(1歴代誌29:3)

イエス様は、サタンから世界の富を全て手に入れる誘惑に遭われましたが、断固、断りました。

8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
9 こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」

聖書(マタイ4:8-10)

他にもたくさん出てきますが、ここまででいいでしょう。
彼らの特徴は、富が主人ではなく、神が主人であることから外れていないことであり、それを実行している点です。

まとめ

聖書は、「お金の奴隷になるのではなく、お金の主人になりなさい」と言っています。
今日のポイントは「お金の主人はお金に支配されず、いつでもお金を手放せる」ということです。

お金の主人になるには、神を本当の主人にしていることが不可欠です。
私たちがお金の主人なのか、それともお金が主人なのか?ということは、私たちの目を見ればわかります。
目が悪い=貪欲やねたみを持っている人(地上に宝を積む)
目が健康=人に分け与えるすベを知っている人(天に宝を積む)

お金の奴隷にならない秘訣は、「いつでもお金を手放せる」状態のことです。
手放せないなら、あなたの主人はお金です。
もちろん、神様が手放せと言った場合です。
ほとんどの場合はそう言わないでしょう。神様は私たちを困らせたいのではないし、お金が欲しいわけではないからです。

でも、私たちがお金に支配されて不幸になっていたら、こう語られるでしょう。
「安心して手放しなさい」「私を信じなさい」手をひらいでごらん。私が満たそう。
その声を信じて従うのが、神が主人である幸いな人です。
なぜ、幸いなんでしょう?
神様に間違いはなく、必ず私たちの心が平安と喜び、感謝と満足で満たされると聖書に約束されているからです。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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