山上の説教㉙ さばいてはいけません「会話の〇〇%は他人のうわさ話」(マタイ7:1-5)

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はじめに

あるデータによると、人は2人以上集まれば話のテーマの70%が”他人のうわさ話”だということです。
70%ですよ。やばいですね。
しかもそのほとんどが、「いかに、私はあの人より優れているのか」「いかに、あの人は私よりも劣っているのか」という主旨の話、だそうです。

それは時として、政治家であり、芸能人であり、上司であり、部下であり、家族であり、パートナーが対象になります。
「私の部下なんだから、私の指示に従わないといけない。なぜいつも、ちゃんと報告してこないのか」
「上司なんだから、リーダーシップを取って方向性を示さないといけない。なぜいつも、ブレてしまうのか」
「子供なんだから、親の言うことを理解して素直に従わないといけない。なぜいつも、反対のことばかりしようとするのか?」
「パートナーなんだから、もっと私に思いやりのある態度をとらないといけない。なぜいつも、自分のペースばかりを大事にするのか?」

私たちはこうした批判のあと、必ずこう付け加えます。
「おかげで私はいつも、損な役回りだ」
「あの人のせいでいつも、私がフォローしなくてはいけない」
「あの子のせいでいつも、私が迷惑をこうむる」
結局のところ、噂話や陰口を話す動機は、「いかに私が正しくて、あの人が間違っているか」です。

私たちは人を裁くことで、自分を守りたいのです。
「私が正しい」ことをいつだって誰かにわかってもらいたいのです。
しかし、科学的には誰かをさばくことのメリットはありません。
脳が自分を裁いていると錯覚し、逆に傷つき、ストレスを抱えます。

また、人をさばく傾向のある人は、「自分も裁かれる」と思うのでその時は盛り上がっても人が離れていきます。
多くの成功者は、人をさばく人は必ず不幸になると断言しています。
しかし、イエスさまは科学的な理由ではなく、神として「他人をさばく」こと禁止しています。

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人をさばく傾向のある人は、「自分も裁かれる」

イエスさまは、このように言われました。

さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。

聖書(マタイ7:1)

なぜ、さばいてはいけないのでしょうか?
聖書は、「自分が自分がさばかれないためです」と言っています。
誰に?神にです。
「さばかれないため」の原語のヘブル語を見ると神的受動態が使われています。
つまり、このさばきが終末における神の最後の審判 であることを表しています。

この地上で、兄弟をさばくことは、最後の審判に影響するということです。
ひどいじゃないか!人をさばくくらい、大したことないじゃないか!と思いますか?
この反論に対する神様の答えは痛快です。

あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。

聖書(マタイ7:2)

よしわかった。じゃあ神の厳しい基準でさばくのではなく、あなたが他の人に対して持っている基準に沿ってあなた自身をもさばこうということです。
他人を赦せる心の広い人に対して、神様は大目に見てくれるのですが、結局、私たちの誰もが自分に甘く、他人に厳しいので、それがブーメランで返ってくることは間違い無いでしょう。
聖書は罪から来る報酬は死と書いていて、罪を持っていれば天国にいけないとあります。

罪ってなんだと思いますか?と聞くと、犯罪という人もいるし、小さな嘘やごまかしという人もいます。
この中に「人をさばくこと」は含まれるのでしょうか?
はい。含まれます。
私たちの何気ない日常会話の70%が「他人の噂話」であるなら、私たちはいかに天国からは遠い存在であるかがわかります。

ここ一週間の皆さんの会話を思い出してください。
何人の人を裁いたでしょうか?
と言われると、思い浮かびましたか?
きっと、ほとんどの人が、自分はそんなに人を裁いていないと思うとか、思い出せてもどうしても嫌な人1,2人くらいでしょう。
おそらく、私たちの日常会話をビデオにとれば、電話を録音し、LINEを見返せば、ものすごい量の噂話と、その中で自然に誰かの批判が含まれているでしょう。

つまり、これがポイントです。
私たちは、「無意識」で人を裁いている。
裁いていることにすら気づいていない。
イエスさまが指摘したのはこのことです。

3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

聖書(マタイ6:3-4)

イエスさまは大工だったので、木材の例えをします。
ちりとは、木材を切断する時に出るあの細かい木の粉です。
ノコギリの刃についてるので、「フっと」息を吹きかけて飛んでしまうくらい、小さいものです。
「梁」とはなんでしょう?
これは新共同訳では、丸太と訳されています。
これは、イエスさまの言葉遊びです。ユーモアです。
目に木の粉が入ったら、痛いじゃないですか。
痛いというか、いずい。

では、自分の目に丸太が入ったら痛いですか?
痛いというか入らないんです。
でも、イエスさまは、人を無意識で批判している私たちこそ、目の中に丸太が入っているので、相手の目のちりの心配をしている人だということです。
「目にちり入ってますよ。痛いでしょ。目薬買った方がいいですよ。眼科紹介しましょうか?」
そう言っている人の目に丸太が刺さっている…
これは、笑っちゃうシチュエーションです。

イエスさまが現代にいればR-1グランプリくらいは優勝しているでしょう。
でもですね。これ、日常生活で起っているんです。
人の批判を言う人がいたとします。
ほとんどの場合、周りの人は何も言いません。
いい人なら、同調してくれます。

でも、言っているその人自体が、もっとひどい場合があります。
その人の欠点というのは周りはみんな気づいているのに、本人は気づかないものです。
大体そういう人には、指摘しても無駄です。
来週詳しく取り上げますが、6節の豚に真珠の例えのようです。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。

聖書(マタイ7:6)

こういう人をイエスさまは、こう言いました。

偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

聖書(マタイ7:5)

「偽善者」
偽善とは、言葉と行いがバラバラの人です。
「あの人、ありえないよ。なんであんなことするんだ」と誰かをさばくなら、その人はその通りやっていないと偽善者です。
普段「他人の遅刻に厳しい」人が、遅刻した時、「自分も不完全な人間だと」物凄い言い訳をしていました。
それは正しいです。自分は不完全で、たまには遅刻もする。
だからこそ、他人も不完全であることを認めて、優しくゆるすことが聖書の教えです。

聖書のメッセージは、他人をさばく前に、まず自分の不完全さを認めること。
そっちに時間を使うのが賢いのです。

偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

聖書(マタイ7:5)

「自分の目から梁を取り除きなさい」
自分の目にある梁とはなんでしょう?丸太とはなんでしょう?
自分では認めたくないところです。無意識に認めないで正当化している心の鎧の中にある自分の弱さです。
聖書では、これを罪と言います。
自分の罪深さを悟ることが、最も大切なメッセージです。

罪を悟れないなら、救いはありません。
十字架の意味を悟れません。
こんな罪深い私のために、イエスさまは十字架で死なれた。
私の罪の代価を支払われるために、罪のないイエスさまが鞭打たれ、釘を刺され、苦しまれた。
ここに感動し、涙が流れる。
神への申し訳ない気持ちと、自分の不甲斐なさ。そして神への感謝と畏怖の念が溢れるのです。
神にさばかれるべき、自分の不完全さを知れば知れるほど、クリスチャンは成長します。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。

聖書(ローマ5:20)

自分の不完全さを悟り、神の赦しの恵みに溢れたものはどのようになりますか?
人を裁きますか?
いいえ。人を赦すものへと変わるのです。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。

聖書(ヤコブ2:13)

では、批判は全てダメなのでしょうか?
あまあま、なあなあな世界。それが理想の社会なのか?
そんなことは決してありません、
なぜ、そう言えるのか?
今日の箇所にちゃんと書いてます。気づいてましたか?

偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

聖書(マタイ7:5)

「兄弟の目からちりを取り除くことができる」
これが、最終的な目標なんです。
イエスさまは、別に、他の人の罪は多めに見て、なあなあの甘々の仲良しクラブを作りましょう。
と言っているのではありません。
イエスさまは、人に優しかったですが、罪に対しては厳しい側面を持っておられました。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。

聖書(マタイ23:27)

これは、痛烈な批判です。
僕が言われたら泣きます。
批判自体が問題なのではなく、誰がいうかが問題だということです。
神であるイエスさまがいうなら、批判は非常に有益です。
正しい批判は、悔い改めを生じさせます。

また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
正しい批判は、愛と配慮を伴った指摘です。

聖書(マタイ18:15)

まずは、一対一で指摘する。
しかし、ここで指摘するのは、共同体を揺るがす大きな罪の場合です。
無条件で批判を正当化はできません。

つまり、イエスさまが「さばいてはいけません」と言ったことの本質は、批判や指摘自体の否定ではなく、私たちの心のあり様のことです。
「あいつはだからダメなんだよな」と他人を馬鹿にする優越感を伴った批判。
「なんで自分ばかり割を食うんだ」と自己を正当化するための悪口。
「そうそう、わかるわ〜」と嫌われたくないために乗ってしまう噂話。
私たちはどうでしょうか?

まとめ

今日、イエスさまは語られます。
まず、他人の目の中のちりをとる前に、あなたがすることがある。と。
なんですか?
自分の目の中に梁(丸太)が刺さっていることに気づき、認めること。

心理学的には、誰かに対して気になる「嫌な部分」や「腹立つ言動や態度」は、あなたが自分自身に対して「嫌だ」「腹立つ」と思っている部分なんです。
他の人の中に見える「ちり」つまり、「嫌な部分」や「腹立つ言動や態度」を感じた時、まず自分の中にそういう部分がないかをチェックしましょう。

私たちの信仰生活は、人を十字架につけることではなく、自分が十字架につけられる存在であったのに、イエスさまが代わりにかかってくださった。
その恵みと愛に浸ること。Back to the Cross。十字架に帰りましょう。

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