山上の説教⑦心のきよい者は幸いです 「心のきよさとは?」マタイ 5:8

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はじめに

「心のきよい者」とはどういう意味でしょうか?

道徳的なきよさ?
宗教的なきよさ?
性的なきよさ?

イエス様は、このように言われました。

21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

聖書(マタイ 5:21-22)

わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

聖書(マタイ5:20)

27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。

聖書(マタイ 5:27-28)

イエス様は、こう言っているのです。
「このような意味において、きよい人は誰もいない」

もし、神様がこのきよさを求められるなら、救われる人は1人もいないことになる。
もし、このきよさなら、教会の中は「「100%ピュア」で、問題は起きないし、トラブルもない。
教会で傷つく人なんて出ない。

でも、実際は?
ぐっちょぐちょですね。

では、イエス様が幸いであると言われた、「心のきよい者」とはどういう人なのでしょうか?

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「心のきよい者」とは?

「心のきよい者」
ギリシャ語の原語を見ると、これは
「完全に透き通った水のような透明」
「混じり気のない金属という意味」
つまり、イエス様がここで言われた「心のきよい者」とは、
「神様に完全に献身している心」を意味します。

もう一度言いますが、これは、
完全に罪のない心ではありません。
私は、完全な夫ではありません。
妻を悲しませるし、妻と喧嘩します。
でも、妻に完全に献身しています。
他の女性と関係を持ちません。
妻を特別に愛しています。
つまり、罪に置いては不完全でも、完全に神様に献身できるのです。

もちろん、私たちはイエスキリストの十字架の血潮と復活の力、聖霊の働きによって、
罪が完全に赦され、神の前では「義」とされています。
しかし、この罪の世に生きている限り、この罪の身体を持っている限り、完全に罪を犯さなくなるわけではありません。
それはキリストの再臨後にかないます。

聖書にも、義人は7度倒れても立ち上がると言っています。
義とされていても、罪を犯し倒れるのです。
でも、私たちは、完全に神様に献身することはできます。
献身とは、私たちの状態ではく、「態度」なのです。
「神様に完全に献身している心」を言い換えると、

①心を尽くして神を愛する心⇄不純な動機

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

聖書(申命記6:5)

「強度」
好きなことには、時間を忘れて没頭する。
ゲームをしたり、自分の趣味をする時。
休みの日にしたいことを考えるとワクワクする。

でも、どうでしょう?
嫌なことや興味のないことは、時間が長く感じます。
神様への完全な献身とは、心から溢れる愛による献身です。

②二心のない忠誠心⇄分裂した忠誠心

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。

聖書(ヤコブ4:8)

「方向」
二心とは、愛する対象が分裂していることです。
つまり、イエス様以外のものにも、心が奪われている状態です。

イエス様がよく言われたのが、「お金」です。
お金のあるところに心がある。
そして、お金と神の両方を愛することはできないと。
また、世にあるものは神への忠誠心を分裂させる誘惑になります。
肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(1ヨハネ2:15-16)

③行動と一致した心⇄偽善

主は言われた。「それは、この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れているからだ。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことである。

聖書(イザヤ29:13)

「真偽」
私たちは、日曜に礼拝を守っています。
賛美で「あなたに捧げます」と告白します。
聖書の言葉に「アーメン(その通りです)」と応答します。

でもどうでしょう?
口先だけになっていないでしょうか?
私たちの平日の生活は、行動と心が一致しているでしょうか?
誰にも見られていないところでの行動は、人に見せれる透明感を持っているでしょうか?
これらの反対を考えてみましょう。
きよくない心とは、

① 心を尽くして神を愛する心⇄不純な動機
② 二心のない忠誠心⇄分裂した忠誠心
③ 行動と一致した心⇄偽善

ここで、2人の人物を見ていきましょう。
サウルとダビデです。
彼らは共にイスラエルの王様でした。
事実、人間的に優れていたのは、サウル王でした。

背も高く、民からの人気もあり、軍事力に長け、聡明でした。
ダビデのように、姦淫の罪も犯したことはなく、殺人もしていません。
でも、聖書はダビデを評価しました。
神がソロモンに言った言葉で、ダビデがきよい心を持っていたことが証明されています。

もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら、

聖書(1列王記9:4)

なぜか?
ダビデは、不完全な姿のままでも、神に「心から」完全に献身していたからです。
一方、サウルは、表面的には完全な姿をもっていましたが、神に対しては実に「不完全な献身」「部分的に献身」していました。

① 心を尽くして神を愛する心⇄不純な動機
サウルの動機は不純でした。
サウルは自分のために「記念碑を立てました」

翌朝、サムエルはサウルに会いに行こうとして早く起きた。すると、サムエルに、「サウルはカルメルに来て、もう自分のために記念碑を立てました。そして向きを変えて進んで行き、ギルガルに下りました」という知らせがあった。

聖書(1サムエル15:12)

② 二心のない忠誠心⇄分裂した忠誠心
サウルの忠誠心は分裂していました。
神様の命令を守るには、何かを捨てないといけない、あきらめないといけない時があります。

主はあなたに使命を与えて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』

聖書(1サムエル 15:18)

しかし、サウルは「神様の命令を守りながら」「戦利品も欲しかった」のです。
でも、どうでしょう?
両方獲得するなんて無理です。
これは神様への部分的な献身です。

なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」

聖書(1サムエル 15:19)

③ 行動と一致した心⇄偽善
サウルは、やっていることと、心が一致していませんでした。

20 サウルはサムエルに答えた。「私は、主の御声に聞き従い、主が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。
21 兵たちは、ギルガルであなたの神、主にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」

聖書(1サムエル15:20-21)

サウルは「私は従っている。私は命令を守った」と言いました。
よくこんなことが言えるなというレベルの嘘です。
しかも、主にいけにえを捧げるために、聖絶しなさいと言われたものを、聖絶しませんでしたと言いました。

意味わかりませんよね?
神の栄光のために「神に従いませんでした」と言っているのです。
自分の不従順を正当化するために、神のせいにしています。
明らかな偽善です。
神様はサウルの行動を占い・偶像礼拝と言いました。

従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、 主もあなたを王位から退けた。」

聖書(1サムエル15:23)

占いや偶像礼拝は、神に従うのではなく、神を自分に従わせることだからです。
あからさまに神を拒否しなかったが、神の言葉を拒否したサウルは、誰を表しているでしょうか?
世的なクリスチャンを表しています。
救われている、ボーンアゲインしている、賜物もある、油注ぎもある、でも神様に献身していない。
ぶどうの木に繋がっていても、実を結んでない。
イエス様の価値観は、この世の価値観とは違うんです。

じゃあ、「俺は献身なんてできない」
そう思うでしょうか?
諦めないでください。
祈りましょう。
ダビデは、たくさん神様の命令を破りました。
しかし、彼は、あきらめずに祈りました。
姦淫と殺人を犯したあと、不従順な自分に気づいた後、

神よ、私にきよい心を造り、 揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。

聖書(詩篇51:10)

苦しかったはずです。
恥ずかしかったはずです。
でも祈ったのです。
これです。

主よ あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。

聖書(詩篇86:11)

一つにしてください。なぜ?

私たちはすぐに、
不純な動機で心が混じるからです。
神様以外のものに心が散って二心になるからです。
心と行動がバラバラになるからです。

でもそこで諦めたらダメだということです。
イエス様ご自身も、神様と心が一つになるために祈りました。
それは簡単ではなかったのです。

それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

聖書(マタイ26:39)

イエス様こそ、祈りによって、完全に献身されました。

まとめ

「心のきよさ」とは罪のないきよさではありません。
神様だけに献身することです。
神様だけを心から愛することです。
神様だけに従うことです。
みなさん、もし、私たちの心が不純物で濁っているなら。
神様よりも大事なものがあるなら。
ダビデのように祈りましょう。

神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。

聖書(詩篇51:10)

きよいものは、なぜ幸いか?
神を見るから。
神を見ることを何よりも、喜ぶ私たちでありますように。
お祈りします。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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