【クリスマスメッセージ】処女降誕の奇跡を信じますか?「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカの福音書1:26-38)

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はじめに

僕にとって、子どものころクリスマスと言ったら、プレゼント。そして、ケンタッキー。そして、学生時代、彼女がいないとなぜが寂しい気持ちになった切ない日。ドラマを見ても、会社の同僚を見ても、クリスマスのイメージって何となくできています。でも、クリスマスは救い主イエスキリストがお生まれになったことを祝う日なんですよね。

世界中で祝われているクリスマス。でも、その本当の意味を知っている人はどれだけいるのでしょう。もし、私たちが教会に行ったことのない人にクリスマスの本当の意味を話したら、どんな反応をするでしょうか?

実はクリスマスって、イエスキリストが生まれた日なんだって!うんうん。
イエスキリストはマリヤから生まれたんだよね!うんうん。
しかも、イエスキリストは処女マリヤから生まれたんだって!えっ?
イエスキリストは全世界に救いをもたらすメシアなんだよね!はっ?
神が人となって受肉して…へっ?
それを処女降誕と言って…はっ?
イエス様は十字架にかかって死なれて。うんうん。それはわかる。
そして、三日後に復活されて…えっ?

イエスキリストは処女マリヤから生まれた。この奇跡を信じることができなければ、クリスマスを本当に祝うことはできません。「自分はそのような奇跡は信じない。そんなに言うなら見せてくれ。見たら信じるかもね」という人がいます。奇跡を見たらみんな信じるのでしょうか?

インターネットに、ヤフー知恵袋という何か質問すれば、誰かが答えてくれるというネット質問掲示板みたいのがあります。そこにこんな質問がありました。「奇跡を見ても信じない者はいますか?」ある人の回答が一番上に載っていました。「奇跡的であっても、起こり得る事実ならば確率の問題だし、死者か蘇るなど、起こり得ないハズの奇跡とやらは何かトリック、仕掛けがある。どっちにしても「何かを信じる」という根拠には成りえないよ。」聖書には、見ないで信じた人がたくさん出てきます。

今日の箇所を見ると、私たちがイエスキリストが、罪なき神の子として処女から生まれたということを信じる前に、罪なき神の子が処女である自分から生まれるという天使の言葉を信じた人がいたことがわかります。それが、イエスキリストの母マリヤです。マリヤに祈りを捧げたり、マリヤを神格化してはいけませんが、私たちはマリヤの信仰から学ぶことが多いのは確かです。今日は、「どうぞ、 あなたのおことばどおりこの身になりますように」タイトルで、みことばから学んでまいりましょう。

マリヤの信仰

今日のメッセージの聖書箇所は、マリヤに天使のガブリエルがやってくる場面から始まります。

御使いは、 入って来ると、 マリヤに言った。 「おめでとう、 恵まれた方。 主があ
なたとともにおられます。 」

聖書(ルカの福音書1:28)


おめでとう!と訳されたギリシャ語は「カイロー」と言います。これは、新約時代にはあいさつにも使われていたので、29節でマリヤは何で自分に御使いがあいさつするのかと思いました。

しかし、 マリヤはこのことばに、 ひどくとまどって、 これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

聖書(ルカの福音書1:29)


しかし、このカイローは、喜びなさいという意味があります。おめでとう!とは喜びなさい!という知らせです。何を喜ぶのか?それはマリヤが恵まれた人だからです。なぜ、マリヤは恵まれた人なのでしょうか?

30 すると御使いが言った。 「こわがることはない。 マリヤ。 あなたは神から恵みを受けたのです。
31 ご覧なさい。 あなたはみごもって、 男の子を産みます。 名をイエスとつけなさい。

聖書(ルカの福音書1:30-31)

この時代の女性にとっては、妊娠そのものが祝福でした。しかし、ここでいう恵みとはそれ以上のものです。「恵み」とは、マリヤに特別な資格がないにもかかわらず、神が彼女を選ばれ、聖霊によってイエス・キリストをみごもるということです。26節を見ると、マリヤはガリラヤの小さな町ナザレの出身だと書いています。

ところで、 その六か月目に、 御使いガブリエルが、 神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。

聖書(ルカの福音書1:26)


ナタナエルが「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハネの福音書1:46)と言うほど、意味を付与することの難しいさびれた町に住む田舎娘でした。しかし、そのマリヤが、全人類の罪を負い、救いをもたらすメシヤをみごもり、その幼子イエスを育てる母として選ばれたことは、神の大きな恵みにほかなりません。32節以降は、生まれるイエスさまがメシアであることを証明する預言です。

32 その子はすぐれた者となり、 いと高き方の子と呼ばれます。 また、 神である主は彼
にその父ダビデの王位をお与えになります。
33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、 その国は終わることがありません。 」

聖書(ルカの福音書1:32-33)


なぜ、ここでダビデの王位とか、ヤコブの家とかいうフレーズが出てくるのでしょうか?それは、旧約聖書の、メシヤ預言に関係しています。

6 ひとりのみどりごが、 私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、 私たちに与えられる。主権はその肩にあり、 その名は「不思議な助言者、 力ある神、永遠の父、 平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、 その平和は限りなく、 ダビデの王座に着いて、 その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、 これをささえる。 今より、 とこしえまで。 万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

聖書(イザヤ書 9:6-7)


不思議な助言者、 力ある神、永遠の父、 平和の君が、一人の男の子として生まれる。そして、その男の子はダビデ王座に着く。それは、ダビデの子孫であるヨセフの公的な息子であり、処女マリヤから聖霊により生ま
れるイエス・キリストです。この御使いの言葉を聞いたマリヤはどうしたでしょう?

そこで、 マリヤは御使いに言った。 「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。 」

聖書(ルカの福音書1:34)

処女の体で、全イスラエルが数千年間待ち望んできたメシヤをみごもるということを聞いたマリヤの当惑と驚きを想像してみましょう。当時の社会において、処女であるべき女性が子を宿すことは、石打ちの刑に当たる罪で、いいなずけのヨセフから婚約を破棄されても仕方がないことでした。マリヤの心情は、どうだったでしょうか。御使いの説明を聞きながら、マリヤは何を考えたでしょうか。そしてマリヤは、このことをどのように受け入れることができたのでしょうか。御使いのことばを聞いた後、マリヤはそれを信仰によって受け入れました。

マリヤは言った。 「ほんとうに、 私は主のはしためです。 どうぞ、 あなたのおことばどおりこの身になりますように。 」こうして御使いは彼女から去って行った。

聖書(ルカの福音書1:38)


この信仰告白には、自分が考えてきた人生を捨て、神が導かれるイスラエルの歴史に自分が用いられること願うという意志が表れています。私たちは、神が自分にー方的に恵みによって計画をされ、思いもよらない道に導かれるとしたら、どのような態度を取るでしょうか。自分の計画をすべて修正しなければならないかもしれない。心の片隅では、神の力強い導きを受けることを求めながらも、実際にそうなると、恐れとためらいで揺らぐのが、弱い人間なのではないでしょうか?

アーメン

しかし、マリヤは、「どうぞ、 あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言いました。この言葉はつまり、どういうことでしょうか?とても、シンプルな信仰告白に置き換えることができます。それは、「アーメン」です。アーメンとは、「その通りです。そのようになりますように。神様のみことばの通りになりますように」という意味です。皆さんは、アーメンをどのように使っているでしょうか?

礼拝に初めて来た人が、よく聞く意味不明な言葉トップ2は、ハレルヤとアーメンです。ハレルヤは神様を心から褒め称える言葉。そして、このアーメンは、神様に心から従う意思を表す言葉です。主のみことばに、心から「アーメン」と告白するならば、処女が子供を宿したような驚くべき奇跡も起こるのです。信仰によって口にするアーメンには力があるのです。なぜなら、神様のみことばに力があるからです。御使いガブリエルのこのセリフはとても有名です。

神にとって不可能なことは一つもありません。 」

聖書(ルカの福音書1:37)


しかし、この文をギリシャ語で読むと、訳されていない言葉があるのに気づきます。それは、神のみことばです。ギリシャ語をそのまま訳すと、「神には不可能ではない、すべてのみことばが」という意味です。つまり、神のみことばには力があるのです。神様の約束、契約には力があるのです。神様が「光あれ!」と言ったら光が創造され、神はお言葉によってこの世を造られたのです。そして、神様が生き返りなさいといえば、死人も蘇り、癒されなさいといえば、どんな病気も癒されるのです。

私たちは神様のみことばに「アーメン、主よ。あなたのおことばどおりこの身になりますように」と反応するべきなのです。

カンジュンミンという韓国の牧師が説教でこのような話をしていたそうです。ある信仰深い姑の話です。息子が結婚した時、この姑(しゅうとめ)はまだ若かったそうですが、息子のお嫁さんは子供がなかなかできなくて悩んでいました。
この姑は、とても敬虔な信仰者でしたので、牧師先生とともに、息子の妻が妊娠するように祈ったそうです。しかし、この妻には信仰がありません。神の奇跡も期待しません。牧師が祈るたびに、この姑は言います。「アーメン!」「アーメン!」すると、姑が妊娠しました。これは実話だそうです。

アーメンには力があるのです。

どうしてもアーメンと言えないとき

しかし、私たちには、どうしてもアーメンと出ない時があります。本当に、あの人に起こったようなことが私の人生に起こるのだろうか?みことばには、神の国と神の義とをまず第一に求めれば、それに次いですべてのものが与えられると書いてるけど、本当なのか?神様が与えられたビジョンが大きすぎて、いや、そのビジョンに対して自分が小さすぎて、無理だと思ってしまう。正直、神様がよくわからない。聖霊様っていまいちわからない。本当に、神様を体験できるのだろうか?本当に、私は悪習慣や罪から解放されるのだろうか?病から解放されるのだろうか?

聖書のみことばは、わけがわからない。俺の、私の頭じゃ理解できない。信じれるはずがないじゃないか?
でも、本当にそのようなことが現実に起こるのだろうか?

みなさん。少し、安心してください。私たちのこのような疑問や困惑は、「処女であるのに妊娠する。しかも、イスラエル中が待ち望んでいたメシヤだ」と言われたナザレのマリヤの「アーメン」よりは簡単かもしれません。

困惑したマリヤに神様は二つの助け船を出しました。それは、私たちが信じることができない時にも適用できるものです。

①聖霊の力

一つ目は、聖霊の力です。

御使いは答えて言った。 「聖霊があなたの上に臨み、 いと高き方の力があなたをおおいます。 それゆえ、 生まれる者は、 聖なる者、 神の子と呼ばれます。

聖書(ルカの福音書1:35)


聖霊の力があなたに臨み、神の力があなたを覆うから大丈夫だ!ということです。ここの覆うという単語は、「臨在」を表します。なんと、力強いみことばでしょうか?私たちが信じれないようなことも、聖霊の力によって可能になります。信仰は聖霊の助けが必要です。みことばは、神様の霊感によって書かれているので、聖霊の助けが必要です。逆を言えば、聖霊の助け、聖霊の臨在、聖霊の満たしがあれば、私たちは神が言われたみことばは、どんなことも可能であると信じることができるのです。

②他のクリスチャンの証し

二つ目は、他のクリスチャンの証しです。

36 ご覧なさい。 あなたの親類のエリサベツも、 あの年になって男の子を宿しています。 不妊の女といわれていた人なのに、 今はもう六か月です。
37 神にとって不可能なことは一つもありません。 」

聖書(ルカの福音書1:36-37)

人は実例を見て信じます。マリヤであってもそうなら安心です。だから、他の信仰者の証は大切です。年をとって、不妊のエリザベツが妊娠したという奇跡がどれだけマリヤに影響を与えたかは、ルカの福音書1:39を見たらわかります。

そのころ、 マリヤは立って、 山地にあるユダの町に急いだ。

聖書(ルカの福音書1:39)


彼女はユダヤの山地に急いで行きました。どんなに急いでも3~4日かかる、160キロメートルほどの遠い道のりでした。使われている単語を見ると、エリザベツは少なくても50歳以上です。本当に妊娠したの?しかも、お医者さんから子供が産めないと言われ続けてきた人が?温厚なマリヤのイメージがありますが、ここでは興奮してとても行動的なマリヤの姿を見ることができます。そして、マリヤは、ただアーメンと言いました。

マリヤは言った。 「ほんとうに、 私は主のはしためです。 どうぞ、 あなたのおことばどおりこの身になりますように。 」こうして御使いは彼女から去って行った。

聖書(ルカの福音書1:38)

イエス・キリストが来られた恵み

そして、マリヤの「ほんとうに、 私は主のはしためです。」という言葉。マリヤは、自分が、卑しい、惨めな、弱いものだということを認識し、受け入れました。私たちは皆、卑しい、惨めな、弱いものです。私たちに一人一人に、救い主、イエス・キリストが必要です。

自分が認めても、認めなくても、罪という問題が立ちはだかり、私たちを、私たちの人生を支配しています。誰にも言えない恥や心の闇。誰にも言えない過去。将来への恐れ。直視できない本当の自分。心の中の葛藤や問題や傷。人間関係、夫婦や家族、仕事の問題。また、罪は社会問題や、ひいては国の問題にまで発展します。

なんとかなるのでしょうか?なりません。聖書は罪から来る報酬は死と言っています。いまだかつて、どんな金持ちも、成功者も、有名人も、誰も、死から逃れた人はいません。しかし、イエス様は、処女から生まれ、罪を持たず、全人類の罪を背負い、十字架で死に、復活されました。それは、全世界の、そして何より私たち一人一人のメシア、救い主になるためです。罪のないキリストが十字架で私たちのすべての罪の呪いと罰を受けたのです。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

聖書(詩篇 103:12)

「さあ、 来たれ。 論じ合おう」と【主】は仰せられる。「たとい、 あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、 紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

聖書(イザヤ書1:18)

もう一度、28節の言葉を見てみましょう。

御使いは、 入って来ると、 マリヤに言った。 「おめでとう、 恵まれた方。 主があなたとともにおられます。 」

聖書(ルカの福音書1:28)


「恵まれた方」という原語は、完了受動態分詞で記されているので、「あなたはすでに恵みを受けた者」という意味です。私が信じる前から、すでに神様は御子イエスキリストをこの地上に遣わし、私たちの罪を解決してくださいました。だからこそ、「おめでとう!喜びなさい!この言葉は私たちすべての者たちに語られている福音であり、メリークリスマス!」という祝福の挨拶になるのです。あとは、それを信じるだけです。アーメンの一言だけでいいのです。

まとめ

マリヤは、自分の人生の只中にイエスを受け入れます。自分の胎に宿したのです。自分の人生に、自分の心の中に入ってきてもらうのです。イエス様は、私たちの心をノックしています。イエス様をあなたの心の中に入れてください。あなたの罪を、あなたの恥を、あなたの傷を、あなたの病を、あなたの恐れを、あなたのすべての問題を、イエス様に委ねてください。任せてください。マリヤは自分が卑しいものにすぎないことを受け入れ、自分が考えていた人生のプランを捨てました。そして、ただ神のみ言葉に「アーメン、あなたのおことばどおりこの身になりますように。 」と言いました。そして、神は彼女を用いて、彼女の名を知らない人はいないほど、歴史上で祝福された女性にしたのです。
それは、主イエスキリストを通して、この恵みが全世界に広がるためであり、この日本に住む私にも、あなたにもそのキリストの恵みが届けられるためなのです。私たちのために、神は人となってお生れになられたのです。あなたのために、イエス様は、お生れになられたのです。それがクリスマスです。

マリヤがイエスキリストの誕生をアーメンと受け入れたように、すでに、イエス様が私の罪の問題を解決するために生まれてくださったということを、そのまま「アーメン」と信じ、感謝して過ごせるよう、私たちのメシアであるイエスキリストの御名によってお祈り致します。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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