【人生を変える聖書のメッセージ#20】善悪の知識の木②存在意義「人間の存在意義とは何か?」創世記2:15-17

善悪の知識の木
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はじめに

ナチスドイツがユダヤ人に行なったといわれる拷問に「穴掘り拷問」というものがあります。

まず囚人に1日かけて大きな穴を掘らせます。
そして次の日に前日に掘ったその穴を埋めさせるというものです。
そしてそれを毎日毎日繰り返します。

たったそれだけのことですが、囚人にとっては何の目的も意味も見出すことができない、過酷な労働です。

しかも、毎日延々と続きます。
いつ終わるかも、わかりません。
もしかしたら死ぬまで続くのかもしれない。

そうなると、人間はすぐに精神的におかしくなってしまうんだそうです。

人は誰しも、この世界に自分が存在していることに、何らかの意味や価値を見出したいと考えています。
なので、私たちは色々なものから、自分の存在意義、つまり、「自分はなぜ、この世に生を受けたのか」を見つけ出そうとします。

しかし、哲学に答えを求めても、誰もが一致できる答えはありません。

では、人間の存在意義は、科学で証明できるでしょうか?
人間がビッグバンによって、偶然にできたとするならば、偶然に意義を見出すことは不可能でしょう。
猿から進化することで、存在意義を見つけることはできるのでしょうか?

この世界の中で、唯一、聖書だけが、人間の存在意義という質問への、明確な答えを持っています。
今日は、創世記2:15-17から、「善悪の知識の木②存在意義」というタイトルで、共に聖書から学んでいきたいと思います。

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人間の存在意義

人間の存在意義は、創世記2:15-17で明確に説明されます。

神様が人間を造って、一番初めにしたことは、エデンの園において、「そこを耕させ、そこを守らせた」ということです。

神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

聖書(創世記2:15)

地を耕し、地を守る。

これはどういうことでしょうか?
地を耕すとは、字義通り、エデンの園の土地を耕して、開拓することです。
その時の食物は、植物や木の実だったので、仕事としての農業です。

守るとは、エデンの園を保護し、管理することです。
この単語は、家畜を世話する時にも使われるし、他の人を守る時にも使われます。

クリスチャンだろうが、なかろうが、ほとんどの人は、何らかの仕事をしています。
なぜ、こんなにも、みんな一生懸命働いているのでしょうか?
それは、そのように造られたからです。

創世記2:15の「耕す」と「守る」という二つの原語であるヘブル語を見ると、広く使える単語なので、ほとんどの仕事をカバーします。
農業でも、会社勤めも、主婦も含まれます。

罪によって、生活のために労苦しなければならなくなりましたが、
本来、仕事は神様が人間に与えた、尊い役割です。

そして、この「耕す」と「守る」という二つの単語にはもっと深い、霊的な意味があります。

15節の、「耕させ」と訳された「アヴァド」というヘブル語は、祭司やレビ人、またイスラエルの民が神に仕える場面にも使われました。

神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。 わたしがあなたを遣わすのだ。 あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

聖書(出エジプト3:12)

こうして、 会見の天幕である幕屋の、 すべての奉仕が終わった。 イスラエル人は、 すべて、 【主】がモーセに命じられたとおりにした。 そのようにした。

聖書(出エジプト39:32)

そして、二つ目の「守らせた」と訳された「シャマル」というヘブル語は、「垣根をめぐらす、守る、保護する、遵守する」等の多様な意味を持ちます。
これは、エデンの園に入り込むサタンの力からエデンの園を守れ、という意味にも読めますし、他の箇所では神の命令を守ることにも用いられます。

あなたがたは会見の天幕の入口の所で、七日の間、昼も夜もとどまり、【主】の戒めを守らなければならない。死なないためである。私はそのように命じられたのである。」

聖書(レビ8:35)

あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる。わたしは【主】である。

聖書(レビ18:5)

この「耕す」と「守る」という二つの単語の本質的な意味は、「神に仕え、神の命令を守る」ということです。
つまり、聖書が明確に示している、私たち人間の存在意義、それは、私たち人間は、「神に仕え、神の命令を守る存在」であるということです。

神のかたちである人間は、地を支配する役割が与えられていましたが、あくまでも代理統治権です。
そもそも、地球を治めること自体が、神に仕えることだということを忘れてはいけません。
神がいて、私たち人間がいるのです。

善悪の知識の木の命令

神様は、続く16-17節で、善悪の知識の木を通しても、命令を与えます。

16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

聖書(創世記2:16-17)

先ほどの、15節が、「しなさい」と言う積極的な命令だとすれば、16-17節の善悪の知識の木は、「してはいけない」という消極的な命令と言えます。

神様が人間に命令を与えたことは、人間を縛り付けるためや、自己満足のためだと思っていはいけません。
なぜなら、神は、ご自身の命令に、従順と不従順を自由に選ぶようされておられるからです。

善悪の知識の木の命令を見たら明らかです。
神様は確かに命令されていますが、神様は、人間に、自発的に従う自由を与えていることを忘れてはいけません。

どんなことでもできる神は、「人を機械のように従がわせる」こともできました。
自由意志を取ってしまえばいいのです。
しかし、神のかたちを持った人間は、自発的に神様に従う意思を与えました。

そして、この自発的な従順は、創造物の中で、神のかたちとして創造された人間だけに与えられているものです。

太陽は、毎日、東から昇って、西に沈みます。「よし、今日は気分転換に、西からのぼろう!」とはなりません。
地球は必ず、1年間に365回時速1700キロメートルで自転します。「今日は、疲れたのでお休みです」と自転をやめたら、地球の全てが一瞬で吹き飛ぶそうです。

4000年前のセミは今日のセミと同じ遺伝情報を持っているので、夏になったら激しく泣いて、気づいたら地面でくたばっています。
昔のライオンは、自分で獲物を追いかけて狩りをしていたけど、最近はダイエットと、環境保護のためにベジタリアンになった。なんてことは起こりません。

なぜでしょうか?
そのように創造されたからです。
そのようにDNAにプログラムされたためです。

しかし、人は違うのです。
神のかたちとして造られたからです。

人も「物質」という次元では他の動物と特に変わりなく創造されました。
皮膚もあり、 目もあり、指もあり、胃もあり、骨もあります。
心臓も、神様がプログラムしたそのまま、意思とは関係なく動きます。

しかし、神のかたちを持った人間だけが、神様と人格的な関係を持つことができます。

神様は、人間を愛しているからこそ、エデンの園のどんな木からでも食べて良いと自由を与えました。
そして、神様は、人間を愛しているからこそ、ちゃんと何がいけないのかを示しました。
それが、この木だけは食べてはいけないと言われた善悪の知識の木によってです。

アダムとイブはどうしたのか?

さて、その後、自由が与えられたアダムと、その妻イブはどうしたのでしょう?

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

聖書(創世記3:6)

食べちゃったのです。
この箇所の前には、蛇の格好をしたサタンが誘惑しましたが、神様の命令を破って食べたアダムとイブは責任を逃れる言い訳にはなりません。

その結果どうなりましたか?

7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
8  そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、 どこにいるのか。」 
10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

聖書(創世記3:7-10)

裸であることに恥を覚え、神様を恐れ、隠れたのです。
「善悪の知識の木の実を食べてはいけない」と言う神様のたった一つの命令を守らなかった結果、人間は神様から離れてしまったのです。

「神から離れること」これが、聖書が言う罪です。
つまり、神様との正しい関係が壊れたということです。

そして、このアダムの罪が、私たちを含む全人類に広がったと聖書は言っています。
罪の結果、私たちも生まれた時から、神様がわからなくなりました。
罪によって神様から離れてしまったからです。
神様に仕えるどころか、自分の恥が見られるのを、恐れて隠れるようになったのです。

しかし、神様が、命令を破ったアダムとイブにしたことに注目しましょう。

8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。 
9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

聖書(創世記3:8-9)

21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

聖書(創世記3:21)

神様の方から2人を探し出し、声をかけ、毛皮の衣で恥を隠してくださったのです。
神様は、アダムとイブを見捨てませんでした。

神様がアダムとイブを見捨てなかったように、神様は、現代を生きる私たちをも見つけに来てくださいます。

それが、イエス・キリスト。
神ご自身が、人となって来られたのです。

まとめ

イエス・キリストは、私たちに、本当の存在意義を教えるために来られました。
罪によって壊れた神様との関係を回復し、神に喜んで仕えることができるようになるためです。

私たちを造られた神であるイエス様との関係こそが、私たちがする全てのことの土台になるのです。

イエス様に愛されているからこそ、神に仕え、神の命令を守ります。
イエス様を愛しているからこそ、神に仕え、神の命令を守ります。

この愛の関係を今日、見直しましょう。
もし、あなたが今、一生懸命、神様に仕えているとしても、その動機がイエス様との正しい関係の上にあるかチェックが必要です。
自己中的な動機や、自分の基準、承認欲求、恐れから来るものであってはいけません。
イエス様との関係の中で、満たされることが先です。

もし、あなたが今、仕えたい!と言うモチベーションすら起きなかったり、神様以外のものに心が奪われているならば、
あるいは燃え尽きてしまっているならば、イエス様の愛に戻りましょう。
神様との正しい関係に、まず立ち返る必要があります。

もし、あなたが今、イエス・キリストを知らないならば、求めてください。
イエス様の前で罪を告白し、神様との関係を正してください。

その鍵は、イエス様の十字架にあります。
イエス様の死と復活によって回復した、揺るがない愛の関係の土台があってこそ、私たちは、自らの意思で、自発的に、喜んで「神に仕え、神の命令を守る」ことができるのです。

神様との愛の関係の中で、「神に仕え、神の命令を守る」それが、私たちの存在意義です。

最後に1ヨハネ5:3-5 を読んで祈って終わりたいと思います。

3 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。 
4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

聖書(1ヨハネ5:3-5)

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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