【人生を変える聖書のメッセージ#36】叫び声は天にまで上った「見えない神を信じることは非論理的か?」 1サムエル5:1-12

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はじめに

サムエル記を読むには、当時の背景を知ることがとても重要です。
ヘブル語の聖書は士師記のすぐ次にサムエル記がきます。
つまり、士師記最後の時代の話です。

士師記の特徴はなんですか?
王がいない時代。そして、道徳的にも宗教的にも堕落している状態。

神様は、イスラエルがどんな状況であろうとも、決して諦めませんので、神のしもべサムエルを召し出します。
1章から3章までの中心は、サムエルです。

4章に入ると、話はサムエルから、イスラエルとペリシテ人との戦争に移ります。
そして、どうなりましたか?
負けます。

神の箱はペリシテ人に奪われ、大祭司エリと、祭司である2人の息子も死にました。

なぜ、イスラエルはペリシテ人に負けたのでしょうか?
それは、堕落したイスラエルが悔い改めて、神に立ち返るためです。

そして、今日の箇所です。

今日の箇所は一言で言うと、神の箱が偶像礼拝をする異国ペリシテ人の地で一人歩きするという話です。

神様はペリシテ人に対してもご自身を証されました。
それは、彼らも創造主である主を知り悔い改めるためです。

今回の箇所は3つの段階に分けられます。
その三段階を通してペリシテ人が神を知って行くというストーリーです。

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一つ目の段階は1-5節。

①【主を論理的に知る】という段階 1-5節

ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。

聖書(1サムエル5:1)

1節で神の箱がアシュドデに移されます
アシュドデはペリシテの都市の中でもっとも重要な町でした。
なぜなら、そこには、ダゴンの宮があったからです。
ダゴンとは、ペリシテ人が崇拝していた神で、カナンの神バアルの父と言われ、下半身が魚の穀物の神でした。

そして、2節でペリシテ人は神の箱をダゴンの像の側に置きます。

それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、ダゴンのかたわらに安置した。

聖書(1サムエル5:2)

古代中東では、戦いに勝った民が、負けた方の神の像を自分たちの神の神殿に持ってくるという風習がありました。
それは、「私たちの神がお前たちの神に勝った。」
「私たちの神がもっと強いのだ」ということの象徴です。

しかし、3節。神の箱をダゴンの前に安置した次の日、主の箱の前でうつぶせで倒れているのを発見します。

アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。

聖書(1サムエル5:3)

それを元に戻すのですが、4節。どうなりますか?
今度は、ダゴンの頭と両腕が切り離されて、敷居の所にあったのです。

次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両腕は切り離されて敷居のところにあり、ダゴンの胴体だけが、そこに残っていた。

聖書(1サムエル5:4)

古代中東では、勝利した将軍は、相手の将軍の頭と両腕が切りとってトロフィーのように持って帰ることがありました。
そして、ダゴンが安置されていた場所と敷居は約50メートル離れていました。

つまり、3つのことからペリシテ人はこれは偶然ではないということを知ったのです。

一つは2日連続で起きた事。二つ目は、頭と両腕が切られてあったこと。そして三つ目に、50メートル離れたところにそれがあったこと。

神様はなぜ、このようなことをしたのでしょうか?
それは、ペリシテ人は、ギリシャから来た民だったからです。
ギリシャ人は、理性と自由を尊重する民族です。
よく聞く、ヘレニズムです。

迷信は信じません。とても理性的で論理的です。
神様は、すべての証拠を通して、「イスラエルの神は生きておられ、ダゴンに勝利した」ということを論理的に示したのです。

なぜ、胴体と頭と両腕は50メートルも離れたところに転がっていたのか。
それは、夜にイスラエルの神とダゴンが戦って、ダゴンが50メートル逃げたが、後ろからとどめを刺されたということです。

皆さんはこれが笑い話だと思いましか?
でも、ペリシテ人がこの状況を見た時、どうやって論理的に考えても、これ以外の説明はなかったでしょう。
50Mも偶然で離れるはずがありません。

しかし、論理的なペリシテ人がした反応は矛盾に満ちていました。
5節。

それで、ダゴンの祭司たちや、ダゴンの宮に行く者はだれでも、今日に至るまで、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。

聖書(1サムエル5:5)

これはどういうことかというと、彼らは、ダゴンが触れた敷居を神聖化し、敷居を踏んではいけないという迷信を守ったということです。

論理的な彼らは、神様の提示した証拠を退けて、ダゴンという偶像を拝み続けたのです。
皆さんは、この矛盾わかりますか?

日本人は無宗教?

日本にも、論理的な人はとても多いと思います。
ほとんどの人が自分は無宗教と答えます。
なぜなら、見えない神を信じることは論理的に意味がわからないからです。
しかし、多くの日本人が、ペリシテ人と同じ矛盾に満ちた行動をしています。

口で言っていることとは全く反対で、日本人のほとんどは、霊的なものを信じています。
元旦には神社にお参りしにいきます。手を合わせて目をつぶります。お願い事を祈ります。

神を信じていない人が、目に見えない何かにお祈りしているのです!矛盾してます!

日本の葬式はほとんどが仏式で、冥福を祈って供養します。
「冥福を祈る」とは、死者が冥土の旅を無事終えて、良い世界に転生できるように、との思いが込められています。
見えない神を信じない人が、見えない霊の供養をしているのです。矛盾してます!

もう一つ、10年以上も前に起こったスピリチュアルブーム。パワースポット。占い。こんなものが雑誌やテレビに溢れ帰ってます。

これらは論理的ですか?いいえ、存在を証明することはできません。
日本人は、神は信じていないと言っていながらも、霊的な存在、あるいは見えない力を信じている行動をしているのです。

これは、論理的なペリシテ人が人が作ったダゴンの像を信じているようなものです。
 

しかし、聖書の神、私たちの信じている神さまはよっぽど論理的です。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

聖書(ローマ人への手紙1:20)

聖書は、自然や創造物を見れは、創造主なる神がいることは明白だと言ってます。
弁解の余地がないとは、論じる必要すらないと言う事です。

私は動物が大好きです。チェジュ島でダチョウを見ながら、感動しました。
このセンス!大きい目。スキップのように走る姿。それが、卵から生まれてここまで大きくなるのです。
そして、ダチョウ一匹一匹が違う顔、大きさ、色、性格を持っているのです。
10分くらい顔を近づけて観察していました。
これは人間が造ったものではないという風に考えることは非常に論理的です。

人間はどこから来たのか?と論理的に考えても、
ビックバンや小さな原子がぶつかって、偶然と偶然が重なって細胞が出来て、小さな生き物ができて、それが進化して、猿になって人間になったと考えるのと、
全能なる神が目的を持ってアダムとイブを造ったと考えるのはどちらが論理的でしょうか?

宇宙大きなものに目を向けても小さなものに目を向けても、神さまの存在を否定するよりも、認めることの方がよっぽど理にかなっていると言えます。

ここで理性と自由を愛するペリシテ人に対して、主は非常に論理的に説明しているのです。
彼らは神の臨在を論理的に知りました。

しかし、彼らが真の神に立ち返るには、それだけでは足りませんでした。

②【主を体験的に知る】という段階6-9節

さらに主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした。

聖書(1サムエル5:6)

ダゴンを打たれた神は、次にダゴンを拝むペリシテ人たちをも病気で打ち始めます。
今まで体験したことのない病気が民全体に広がり、神が本当に生きていること、神の力が今民の上にのしかかっていることを、彼らは実際に体験し始めたのです。

神様の配慮がわかるでしょうか?
論理的に示しても、ダメだったので、ちゃんと体験させているのです。
「私が神だ!」「戻ってこい!」というメッセージです。

アシュドデの人々は、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。」

聖書(1サムエル5:7)

ここでペリシテ人の反応が変化していることに気づきます。
1-5節までは、彼らの反応は出てきません。

よく読んで見てください。
7節で初めて、彼らの口から「イスラエルの神」というフレーズが出てきます。
「わざわい=イスラエルの神」ということを体験によって学び始めたのです。

面白いことに、6章以降になると、彼らは「イスラエルの神」ではなく、今度は「主」と呼びます。
【主】とはアドナイ。イスラエルの神の名前です。
彼らは、わざわいを通して、神がいる事、神が働いていること、神が誰かを体験を通して学んだのです。

それで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか。」と尋ねた。彼らは、「イスラエルの神の箱をガテに移したらよかろう。」と答えた。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。

聖書(1サムエル5:8)

アシュドデの人々が、早く神の箱をどこかに移してくれ!といい、ペリシテ人のリーダーが集まり相談しました。
アシュドデに広がった病気と神の箱との関係性を疑って、ガテに送ってガテでも同じことが起こるかを確かめようとしたのです。
まだ、完全に信じていないということです。

それがガテに移されて後、主の手はこの町に下り、非常な大恐慌を引き起こし、この町の人々を、上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。

聖書(1サムエル5:9)

そして、ガテでも同じことが起きました。
戦争に参加した男性だけではなく、女性も、子どもも、赤ちゃんも、すべての人が体験し、もはや「神さま」以外に適当な原因は見つからなくなります。
ここで、例外なくすべてのペリシテ人が体験しました。

③【主に応答する】段階 10-12節

そこで、彼らは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンに着いたとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私たちのところにイスラエルの神の箱を回して、私たちと、この民を殺すのか。」

聖書(1サムエル5:10)

次に、エクロンという違う町に送り、また同じ災いが起こります。ここで初めて彼らは叫びます。

そこで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部集めて、「イスラエルの神の箱を送って、もとの所に戻っていただきましょう。私たちと、この民とを殺すことがないように。」と言った。町中に死の恐慌があったからである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。

聖書(1サムエル5:11)

そして、ついにイスラエルに神の箱を送り返そうと決断しました。
これは、ペリシテ人がイスラエルに勝った戦利品を返すと言う事。
つまり、以前の勝利が取り消しになることを、ついに認めたということです。

死ななかった者も腫物で打たれ、町の叫び声は天にまで上った。

聖書(1サムエル5:12)

最後に、彼らの叫びは天まで上るほど大きく、切羽詰まったものになったのです。

困難があって初めて信じる?

ほとんどの人は人生に悲劇や困難が来た時にキリストを信じることが多いです。
人生順風満帆のときは神さまなんて必要ないと思います。考えもしないでしょう。
しかし、仕事がうまく行かないなったり、何か問題が起こると、人は神を頼るのです。

クリスチャンの親から生まれた人も同じです。
どこかで必ず、神さまに助けを叫びも求める時が来て、初めて個人的に人生の救い主イエス・キリストに出会うのです。

聖書を読んでいるので、頭で神様を知るでしょう。
しかし、体験しないとわかりません。

お金がなくなって、初めて祈ります。そして、本当に経済的に養われていることを体験し、神を知ります。
天国の希望と口で言うのは簡単です。永遠のいのちを与えた十字架。頭ではそうかと思います。
しかし、実際に家族が死んだり、病気になって、いのちの大切さと、永遠の希望を体験するのです。

自分でコントロールしているように錯覚し、自分の人生はそんなに難しくはないよと思っていても、
苦難を通して、神に叫ぶようになります。

しかし、叫ぶだけでは不十分です。

死ななかった者も腫物で打たれ、町の叫び声は天にまで上った。

聖書(1サムエル5:12)

彼らの叫びは、天にまで上ったが、イスラエルの神に叫んだとは書いていません。
イスラエルだろうと、ペリシテ人だろうと、問題は、神様の前に、悔い改め、神様に立ち返るかどうかです。

神様は、神の箱を通して、ペリシテ人に「私が神だ!たち返りなさい!」と言うチャンスを与えました。
神様は、イスラエルにも、敗北と恥を通して、「イスラエルよ!私にたち返りなさい!」と言うチャンスを与えました。

しかし、実際に、立ち返ったのは、、、ペリシテではなく、イスラエルでした。

2 その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は【主】を慕い求めていた。
3   そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして【主】に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を【主】に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」
4 そこでイスラエル人は、バアルやアシュタロテを取り除き、【主】にのみ仕えた。

聖書(1サムエル7:2-4)

この後、サムエルのもと悔い改めたイスラエルはペリシテ人に勝利します。

神は私たちに何を語っておられるのか?

今日の箇所から、神様は私たちに何を語っておられるのでしょうか?
それは、神様は、イスラエルにも、ペリシテ人にもご自身をあらわされ、「私が神だ!私にたち返りなさい」と言うメッセージを送られたと言うことです。

ある時は、とても丁寧に、論理的に。
そして、ある時は、経験を通して、神様が生きておられることを示されます。

しかし、神がいることを知り、天にまで叫び声が届くくらい体験したとしても、
私たちが、悔い改め、主を慕い求め、主のみに仕えないならば、救われないと言うことです。

皆さん、神を頭で知るだけでは不十分です。
神様を体験するだけでも不十分です。
叫ぶだけでも不十分です。

神に叫び、神を慕い求め、神を愛し、神にだけ仕える事が必要です。

滅ぼされたくないから神を信じる。
今の状況から救われたいから、祝福を受けたいから神を信じる。
これらの動機も不十分です。

愛によって、ただ愛によって神に仕えるのです。

まとめ

私たちは、今どのような現状にいるでしょうか?
ダゴンのように自分を守ってくれると信じているものを握っているかもしれません。
神の箱がもたらしたような、苦しみや試練を通っているかもしれません。

しかし、すべての状況を通して神様は、あなたに語っておられるのではないでしょうか?

「私が本当の神だ」「虚しい偶像を捨てよ」「私に帰れ」「私に立ち返れ」「私の存在を認めよ」

最後にもう一度、1サムエル7:2-4を読んで祈りたいと思います。

2 その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は【主】を慕い求めていた。
3   そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして【主】に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を【主】に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」
4 そこでイスラエル人は、バアルやアシュタロテを取り除き、【主】にのみ仕えた。

聖書(1サムエル7:2-4)
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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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