ゆうき牧師のバイブルライフコーチング

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【人生を変える聖書のメッセージ#15】信仰は旅である⑦ 天の故郷に至るまで「信仰生活はフルマラソン?」

約12分

はじめに

1984年のロサンゼルスオリンピックに出場した女子マラソンの選手、スイスのガブリエラ・アンデルセン(Gabriela Andersen-Schiess)をご存じでしょうか。彼女がゴールした時、右足はほとんど動いておらず、右手はぶらついた状態で、競技場の大観衆の声援の後押しによって、2時間48分42秒の37位で完走を果たしました。

私はマラソンが大の苦手です。忍耐力がないからです。私のようにマラソンが苦手な方に残念なお知らせがあります。それは、信仰の旅はフルマラソンのように長く続くレースだということです。信仰の旅がマラソンのように例えられている箇所は、たくさん出てきます。

競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。 ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

聖書(コリント人への手紙第一 9:24)

私は勇敢に戦い、 走るべき道のりを走り終え、 信仰を守り通しました。

聖書(テモテへの手紙第二 4:7)

あなたがたはよく走っていたのに、 だれがあなたがたを妨げて、 真理に従わなくさせたのですか。

聖書(ガラテヤ人への手紙5:7)


先ほどお話ししたロサンゼルスオリンピックの女子マラソンでは、50人がスタートし、うち44人だけがゴールをしました。信仰の旅もマラソンのように最後までゴールすることが大切なのです。なぜなら、最後まで走りきれずに途中で棄権する人も少なくないからです。もしかしたら、アンデルセンのように、ふらふらでゴールする人もいるかもしれません。しかし、安心してください。

神は真実な方ですから、 あなたがたを、 耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。

聖書(コリント人への手紙第一 10:13)

と聖書に書いてあります。神様は必ずゴールできる道を用意されているのです。では、どうやったら、一生涯続く信仰の旅において、どのように最後まで走り抜くことができるのか、今日はヘブル人の手紙から見ていきたいと思います。

信仰のマラソン

私がマラソンをする人にもつ疑問はこれです。「何で、そんなに過酷な練習や苦しみを忍耐してまでするのか?」
私の知り合いのランナーに聞いてみたところ、「ゴールの時の満足感と達成感が、不思議なものでまた走ってみよう!という気持ちになる」とのことです。クリスチャンはどうでしょう?

ある時は世の誘惑を跳ね返し、罪と戦い、自分の十字架を背負ってまで、信仰の旅を走り続けるのか?どんな人でも愛そうとすることは、時に傷つくし、時に面倒くさくなります。弱い罪深い自分を直視するのは、辛いし、凹むし、信仰の旅で後ろ向きになったり、どうしても熱くなれないという人は、もしかすると、内側から溢れる動機が乏しいのかもしれません。ヘブル人への手紙11章8-16節にはアブラハムの信仰の旅が要約されています。


アブラハムは、

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

聖書(へブル人への手紙 11:8)

どこに行くことも知らずに、故郷と家族を捨てて神様が示す地に行きました。

これらの人々はみな、 信仰の人々として死にました。 約束のものを手に入れることはありませんでしたが、 はるかにそれを見て喜び迎え、 地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

聖書(へブル人への手紙 11:13)


約束をもらって従ってきたのに、約束の完全な成就を見ることもできませんでした。

15 もし、 出て来た故郷のことを思っていたのであれば、 帰る機会はあったでしょう。

聖書(へブル人への手紙 11:15)


しかも、故郷には一度も帰りませんでした。

住み慣れた故郷を捨てて、目に見える結果の出ない約束を握りしめ、天幕生活を続けた、アブラハム。途中、遠回りをすることはあっても、決して信仰の旅を諦めなかったアブラハム。なぜかは彼の大きな動機が16節にはっきりと書いています。

しかし、 事実、 彼らは、 さらにすぐれた故郷、 すなわち天の故郷にあこがれていたのです。 それゆえ、 神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。 事実、 神は彼らのために都を用意しておられました。

聖書(へブル人への手紙 11:16)

「天の故郷にあこがれていた」
この希望です。新共同訳では、”ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。”(へブル人への手紙 11:16)となっています。天の故郷、聖徒のために用意された都とは、どこでしょうか?

1 また私は、 新しい天と新しい地とを見た。 以前の天と、 以前の地は過ぎ去り、 もはや海もない。
2 私はまた、 聖なる都、 新しいエルサレムが、 夫のために飾られた花嫁のように整えられて、 神のみもとを出て、 天から下って来るのを見た。
3 そのとき私は、 御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。 「見よ。 神の幕屋が人とともにある。 神は彼らとともに住み、 彼らはその民となる。 また、 神ご自身が彼らとともにおられて、
4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。 もはや死もなく、 悲しみ、 叫び、苦しみもない。 なぜなら、 以前のものが、 もはや過ぎ去ったからである。 」

聖書(黙示録 21:1-4)


神の国の完全な現れである新天新地での新しいエルサレムのことです。アブラハムにとって、この地上のことが全てではありませんでした。彼は、この完全なる天の故郷に大きな希望を置いていたのです。

冒頭でお話しした、アンデルセン選手がふらふらになりながら完走したオリンピックの女子マラソンでは、50人がスタートし、うち44人だけがゴールしたと言いました。つまり、6人は完走できなかったのです。なぜでしょうか?
それは、42キロを走る間に、足腰が痛くなったり、苦しくなったり、自分自身と戦わなければいけないからです。自分自身だけではなく、途中、雨風が吹いたり、雨が降ったり、暑かったり、寒かったりと天候とも戦わなければならないからです。その時、途中で「もういいや」と心が折れてしまうと完走は難しくなるでしょう。信仰の旅においても、天の故郷という大きなゴールの希望を持っていたとしても、完走を妨げる戦いがあります。

ヘブル書の11章17-40節までに、それらがはっきりと書いています。

完走を妨げる戦い

苦しみ

24 信仰によって、 モーセは成人したとき、 パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、 むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

聖書(ヘブル人への手紙 11:24-25)

迫害

35 女たちは、 死んだ者をよみがえらせていただきました。 またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、 釈放されることを願わないで拷問を受けました。
36 また、 ほかの人たちは、 あざけられ、 むちで打たれ、 さらに鎖につながれ、 牢に入れられるめに会い、

聖書(へブル人への手紙11:35-36)

試練、貧しさ、悩み

また、 石で打たれ、 試みを受け、 のこぎりで引かれ、 剣で切り殺され、 羊ややぎの皮を着て歩き回り、 乏しくなり、 悩まされ、 苦しめられ、

聖書(へブル人への手紙11:37)

孤独・放浪

–この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした–荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。

聖書(へブル人への手紙11:38)


そうです。信仰の旅においては、このような患難があるのです。しかし、聖書は、ここで終わりません。続くヘブル12章の1節、2節で、「患難があっても、天の故郷への希望を失わずに、信仰の旅を走り切りなさい!」と三つのアドバイスを聖書は続けます。これが、今日の適用ポイントです。

希望を失わず信仰の旅を走りきるポイント

① いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる

こういうわけで、 このように多くの証人たちが、 雲のように私たちを取り巻いているのですから、 私たちも、 いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、 私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

聖書(へブル人への手紙12:1)

古代ギリシャのオリンピックのマラソンでは、競技場には男性だけが入ることができました。なぜならば、選手たちは裸で走るからです。競技で勝つためには、身を最大限に軽くして、最高の実力を発揮する必要があったからです。信仰のレースもそれと同じです。重荷、つまり私たちは信仰の旅を妨げるものを捨てなくてはいけません。私たちが捨てるべき重荷や罪とは何でしょうか?

無慈悲、 憤り、 怒り、 叫び、 そしりなどを、 いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

聖書(エペソ人への手紙 4:31)

ですから、 地上のからだの諸部分、 すなわち、 不品行、 汚れ、 情欲、悪い欲、 そしてむさぼりを殺してしまいなさい。 このむさぼりが、 そのまま偶像礼拝なのです。

聖書(コロサイ人への手紙3:5)

しかし今は、 あなたがたも、 すべてこれらのこと、 すなわち、 怒り、 憤り、 悪意、 そしり、 あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、 捨ててしまいなさい。

聖書(コロサイ人への手紙 3:8)

私たちに、 不敬伲とこの世の欲とを捨て、 この時代にあって、 慎み深く、正しく、 敬伲に生活し、

聖書(テトスへの手紙2:12)

ですから、 すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、 心に植えつけられたみことばを、 すなおに受け入れなさい。 みことばは、 あなたがたのたましいを救うことができます。

聖書(ヤコブの手紙1:21 )

ですから、 あなたがたは、 すべての悪意、 すべてのごまかし、 いろいろな偽善やねたみ、 すべての悪口を捨てて、

聖書(ペテロの手紙第一2:1)


私たちは、これらの、 この世の欲の重荷や、すべての罪を根こそぎ捨てる必要があるのです。 

② 忍耐をもって走り続ける

こういうわけで、 このように多くの証人たちが、 雲のように私たちを取り巻いているのですから、 私たちも、 いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、 私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

聖書(へブル人への手紙 12:1)


アブラハムは、遠回りと悔い改めを繰り返しましたが、それでも諦めずに信仰を保ち続けました。信仰を保ち続けるためには忍耐が必要です。

あなたがたが神のみこころを行って、 約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

聖書(ヘブル人への手紙10:36)

しかし、 最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

聖書(マタイの福音書 24:13)


インターネット、ファーストフード、電子レンジ、クレジットカードなど、私たちの生きる21世紀の社会は忍耐しなくて良い便利な社会です。私たちも、試練が来た時、できるだけ早くその問題を解決したいと思います。そして、試練が長く続くと信仰を失いがちです。しかし、ある時は長い長い試練を神様があえて与える場合があるのです。それは、忍耐が希望を生み出すからです。

忍耐が練られた品性を生み出し、 練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

聖書(ローマ人への手紙 5:4)


つまり、私たちは、 試練や誘惑が来ても、忍耐をもって信じ続けなければならないということです。 

③ イエスから目を離さない

信仰の創始者であり、 完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 イエスは、 ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、 はずかしめをものともせずに十字架を忍び、 神の御座の右に着座されました。

聖書(へブル人への手紙 12:2)

私たちがしなくてはいけないたった一つのことは、 どんなときでも「イエスから目を離さない」 ということです。キリストは、私たちの信仰の創始者です。私たちの信仰の土台はイエス様です。キリストが十字架で死んで復活されたことによって、信仰・希望・愛が生まれるからです。またキリストは完成者です。キリストは十字架上でこう言われました。

「完了した」

キリストの十字架の死と復活の御業に何も付け加える必要はありません。

11章の後半は、アブラハム以外にも信仰の旅を走り終えた人々の名前が列挙されていました。イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、 バラク、 サムソン、 エフタ、 またダビデ、 サムエル、 預言者たち。彼らが、困難・迫害・貧しさなどの逆風でも、天の故郷の希望を持ち続けることができた理由はここにあります。彼らが、彼らの神、イエス・キリストから目を離さなかったからです。信仰の旅路は、困難・迫害・貧しさだけで、全く喜びや幸せはないのでしょうか?そんなことはありません。やがてくる、天の故郷に行くまでは、苦しみだけしかないのでしょうか?そんなことはありません。アブラハムたちは、この地での人生の旅で、すでに神と歩む幸せを味わっていたのです。 私たちは、この地上にあっても、神様の臨在を感じ、神様と人格的な交わりをし、神様を礼拝する御霊の喜びを味わうことができます。 どんな苦しみや困難があったとしても、余りある、比較することのできない、義と平和と聖霊による喜びを体験できるからです。

なぜなら、 神の国は飲み食いのことではなく、 義と平和と聖霊による喜びだからです。

聖書(ローマ人への手紙 14:17)

まとめ

さあ、信仰の旅を走り終えるための三つのアドバイスをもう一度見てみましょう。
① いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる(1節)
② 忍耐をもって走り続ける(1節)
③ イエスから目を離さない(2節)

もし、私たちの中に、天の故郷の希望があまりないならば、地上の楽しみの方が魅力的に見えるならば、主と共に歩む喜びを、毎日体験していないからかもしれません。逆に、この地上の生活において、この天国の喜びを味わっている人は、さらにすぐれたもの、神の国の完全な現れを切に求め、期待し、ワクワクし、希望を持つことができるのです。

メッセージを読んでくださり、ありがとうございます。このメッセージはYoutubeでもご視聴いただけます。

About The Author

札幌ガーデンチャーチ牧師ゆうき牧師
牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。
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