【人生を変える聖書のメッセージ#7】世の価値観に流されない唯一の方法「あなたがたは耳が鈍くなっている」ヘブル人への手紙5章11-14節

あなた方は耳が鈍くなっている
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はじめに

バラバラのグループや会社を一致させるには「共通の敵を作る」というセオリーがあります。つまり、ライバル会社や、外部に脅威があると、むしろ内部の結束を深めるのです。この原則をうまく取り入れているビジネスマンや政治家は少なくありません。なので、ライバル会社や、敵国をダメにしたいなら、スパイを送り、内部から崩壊させることが一番です。

この原則をうまく活用しているのが、サタンです。
一部のイスラム国などを除いて、アメリカや日本においては、激しい迫害はありません。しかし、教会内部に噂話を流し、互いに対立させて分裂を引き起こさせる手段は歴史を見れば明らかです。また、それだけではなく、インターネット、パソコン、スマホ、映画、音楽、学校教育、新聞、雑誌、マンガ、マスメディアなどを通して、サタンはこの世の価値観を知らぬ間に教会内に植え付けています。つまり、内側からうまく攻めているのです。

この世の価値観とはどんな価値観でしょうか?

・幸せはモノを所有することによって手に入る。
・欲しいものは、できる限り早くなんでも手に入れるべきだ。
・お金、力、地位、健康があれば、安心だ。
・そして、それらの上に、快楽、便利さ、慰めを求める。
・神は日常生活には関係ない。
・キリスト教はスピリチュアルなものの一つに過ぎない。
・倫理的な絶対的基準などない、あなたが真実だと思うものが真実なのだ。
・他の人に対して責任など負わなくて良い。あなた自身にだけに責任を持ちなさい。
・今の人生がすべてだ。死後は関係ない。

2001年のアンケート調査によると、32%のアメリカ人が絶対的真理を信じる。
49%の福音派クリスチャンが絶対的真理を信じる。とあります。
(Barna & Hatch 2001,80)

この統計結果の何が問題なのでしょうか?
神さまを主の主、王の王と賛美しているクリスチャンの半分が絶対真理などはないと思っているのです。教会の内部にも、世の価値観、相対主義が流れ込んでいるということです。

人は人。自分は自分という自己中心。度の過ぎた効率化。理性で霊的なことを理解しようとしたり、快楽主義などが入ってきます。価値観を変えてしまえば、神のことばをその価値観で歪めて理解する人が出てきます。サタンのやり方はとても頭がいいと思います。

世の価値観と聖書の価値観との対立は今に始まったことではありません。聖書を通しても、歴史を通しても、常に、神の視点(啓示)と人間の視点(世の中の価値観)、どちらを土台にして生きているかを問われてきたのです。なので、イスラエルの民の中に、世の価値観が入り、霊的な堕落が始まった時に、神様はいつも神の人や預言者を遣わして「私の元に帰ってきなさい」というのです。すぐに、神様から離れて世の価値観に流される罪深い人間が、神の視点に戻る伴はいつの日も、「神のみことば」でした。

イスラエルの民が、熱心にしてきたことは、徹底的なみことばの教育でした。
世の価値観に流されなかった主の勇士ダニエルの信仰の土台には、ヨシア王のみことばの宗教改革がありました。
韓国のリバイバルも、祈りによってとよく思われがちですが、徹底的なみことば教育が土台になっていたことを忘れてはいけません。

異端の特徴を知っていますか?異端は一生懸命聖書を教えるんです。聖書を用いて間違った教理を叩き込み、聖書の真理によって矯正しようとしても、むしろ正しい聖書の教理を間違っていると思うようになるのです。

みなさん、私たちが神のみことばに注意を払わなくなった時、みことばがよくわからなくなった時、わかったつもりになってみことばに従って生きていない時、私たちの信仰は黄色信号が灯ることを知らなくてはいけません。サタンは私たちを内側から、気づかないうちに、堕落させようとするからです。

今日は、ヘブル人のへの手紙から、「あなたがたは耳が鈍くなっている」というタイトルで共に、 主のみことばに立ち返りたいと思います。

みことばに従う

まず、ヘブル書の背景について簡単にお話ししたいと思います。ヘブル書の著者は明記されていないので、パウロ、クレメンス、バルナバ、アポロなどではないかと多くの学者が推測しています。ルターの主張した、「雄弁で」「旧約聖書に通じていた」というアポロが書いたのではないかと一般的には言われています。

ヘブル書は誰に向けて書かれた手紙なのか。ローマにいる家の教会、特にユダヤ人クリスチャンに向けて書かれています。ローマ帝国といえば迫害があったことが安易に想像できますが、今回の箇所によると、信仰の危機を招いたのは、外側からの迫害よりも彼らの内側の問題だと言っています。

この方について、 私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、 あなたがたの耳が鈍くなっているため、 説き明かすことが困難です。

聖書(へブル人への手紙5:11)

この方とは、5章の前半を見ると、創世記に出てくる大祭司メルキゼデクのことです。

著者はメルキゼデクを例としてキリストについて教えようとしたが、「もうやめた。これ以上話しても無駄だろう」と言いました。ヘブル書の読者の何が問題になったのでしょう?メルキゼデクなどに関するキリストについての知識を十分に理解することは難しい人たちがいたということです。
読者の中には、信仰を持ってから月日が経っているのになおもそうしようとせず、幼子のように乳を飲む信仰のまま、神のみことばの初歩を習う状態にとどまっていた者たちがいました。それを一言で表したのが、11節の、「耳が鈍くなっている」というフレーズです。耳が鈍くなっているという表現の原語を見ると、「うすのろ、怠慢、不活発、面倒臭がり、鈍感な、鈍い」などという意味があります。

このことから、耳が鈍くなっているとは、神のことばの奥義を聞いても、それを理解できない人。いや理解する力がないとか、知力的に乏しいという意味ではなく、理解しようとしない、そもそも、みことばに従う気がない、実行しない態度のことを言っています。この「耳が鈍くなっている」ということは、ヘブル書で一貫して強調されているテーマでもあります。

ですから、 私たちは聞いたことを、 ますますしっかり心に留めて、 押し流されないようにしなければなりません。

聖書(ヘブル人への手紙 2:1)

ですから、 聖霊が言われるとおりです。「きょう、 もし御声を聞くならば、 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

聖書(ヘブル人への手紙 3:7-8)

「きょう、 もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。 」と言われているからです。

聖書(ヘブル人への手紙 3:15)

神は再びある日を「きょう」と定めて、 長い年月の後に、 前に言われたと同じように、 ダビデを通して、「きょう、 もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。 」と語られたのです。

聖書(ヘブル人への手紙 4:7)

1 こういうわけで、 神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、 万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。 ところが、 その聞いたみことばも、 彼らには益になりませんでした。 みことばが、 それを聞いた人たちに、 信仰によって、 結びつけられなかったからです。

聖書(ヘブル人への手紙 4:1-2)

パターンがあるのがわかりますか?すべて、みことばを聞いた後の態度について言っているのです。
みことばを聞いて終わりではなく、しっかりと心に留めることが必要。みことばを聞いて、心をかたくなにしてはいけない。みことばを聞いて、信仰によって結びつけられなかったとは、みことばを聞いても従わなかったという意味です。みことばを聞いても、従わない人を、「耳の鈍い人」と聖書は言っているのです。

この「耳の鈍い人」というテーマは聖書にたくさん出てきます。エレミヤ書の預言者エレミヤは、涙の預言者と言われています。彼は、なぜ主の前で泣き、嘆いたのですか?それは、南ユダの民が聞く耳を持たなく、主の裁きが来ることを嘆いているからです。

旧約聖書にもたくさん、「愚かもの」と出てきますが、聖書的愚か者とは、「聞く耳をもたない」人です。

新約で、イエス様ご自身も、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言いました。それは、神であるイエス様の語られたみことばに対しても、「耳を開いて聞く人」と「心をかたくなにして聞かない耳の鈍い人」がいたからです。

皆さんはどちらでしょうか?みことばに信仰によって従う思いを持っていますか?みことばがあなたの実生活におけるひとつひとつの選択の基準になっているでしょうか?仕事をしている人は毎日たくさんの決断をしなければいけません。しかし、そのひとつひとつの決断は果たして、みことばにかなったものでしょうか?友達、家族、教会の人々に対するあなたの態度は、みことばにかなったものでしょうか?お金に対するあなたの考え、お金の使い方はみことばにかなったものでしょうか?どこかで、「まあいいじゃん」「みんなやっているし」「細かいことは考えない」と妥協してはいないでしょうか?実生活のあらゆる場面において、みことばの基準に生きようとする人は、みことばを熱心に読み、聞き、学ぼうとします。

皆さんは、どうですか?
みことばはクリスチャンならとりあえず日課として読まなければいけないものではないのです。実生活の中で神に従い、神を喜び、喜ばせるために必要な霊の糧なのです。

12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、 神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。 あなたがたは堅い食物ではなく、 乳を必要とするようになっています。
13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、 義の教えに通じてはいません。 幼子なのです。

聖書(へブル人への手紙5:12-13)

ヘブル書の読者たちは、神のことばの初歩すらあやふやであって、まるで乳ばなれしていない赤ちゃんのような全然成長していない状態だったのです。とりあえず、救われたからOK!教会に行っているからOK!
でも、それは、人生のあらゆる領域でみことばに聞き従うという心はなく、自分勝手に生きている状態です。それが、ヘブル書の読者たちの「耳の鈍くなっている」状態なのです。

それでは、ヘブル書の著者は本来どういう姿にならなければいけないと言っているでしょうか?
三つのことが出てきます。

  1. ほかの人を教えられる人(12節)
  2. 義の教えに通じている人(13節)
  3. 善悪を見分けられる人(14節)

誰かに教えられる人はどんな人ですか?
聖書を知識的に教えられるだけではなく、その教えたことを実践している人です。

義の教えに通じている人はどんな人ですか?
頭で聖書を理解するだけでなく、それを実践している人のことです。

善悪を見分けられる人はどんな人ですか?

しかし、 堅い食物はおとなの物であって、 経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

聖書(へブル人への手紙5:14)

つまり、みことばを聞くだけではなく、実生活の様々な困難の中で、何が神の御心で良いことか、何が悪いことかを実際に経験して身につけた人です。

先ほどのヘブル書を通して流れている同じパターンを思い出してください。

聞いて従う。

この二つができて初めて、大人のクリスチャンだと言っているのです。

当時のヘブル書の読者たちの間には、迫害や脅かしがありました。そして、教会の外から来る人たちも様々な教えを持ち込んできていました。つまり、本来ならばあなたたちは、初歩の教えにとどまっていないで、みことばに聞き従い実践し、教会の中の様々な問題に対処していくべきなんですよと、そして証人になっていなければならないんですよ!と叱咤激励しているのです。

私たちの実生活においても、みことばを実践することが求められています。みことばに従わなくちゃいけないからイヤイヤ従うものだと理解していたら大きな間違いです。本来は、神のみことばに従うことなしで、現実生活の様々な問題を乗り越えていくことができないからです。

インターネット、パソコン、スマホ、映画、音楽、学校教育、新聞、雑誌、マンガ、マスメディアなどを通して、流れてくる様々な価値観をどのように見分けていけばいいのですか?
みことばの真理によってしか方法はありません。

人間関係で起こる様々な問題にどう対処していけばいいんですか?裏切りやいじめにあってひどく傷ついた時、家庭の危機、どうしても愛せない人がいる時。様々な問題に対して、答えを与えるのは、神のみことばの他にありません。いや、むしろ、このみことばには答えがあるのです。

神のことばは生きていて、 力があり、 両刃の剣よりも鋭く、 たましいと霊、 関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、 心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

聖書(へブル人への手紙4:12)

聖書はすべて、 神の霊感によるもので、 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

聖書(テモテへの手紙第二 3:16)

神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。

聖書(箴言30:5)

草は枯れ、 花はしぼむ。だが、 私たちの神のことばは永遠に立つ。 」

聖書(イザヤ書40:8)

聖書には、自分や状況に流されずに、断固として神のみことばに従った例が多く出てきます。

神のみことばに従った人① ダビデ

まず、ダビデです。イスラエルの王となったダビデに、ある日預言者ナタンが、預言によってダビデの隠していた罪をはっきりと告げました。

9 それなのに、 どうしてあなたは【主】のことばをさげすみ、 わたしの目の前に悪
を行ったのか。 あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、 その妻を自分の妻にした。 あなたが
彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。
10 今や剣は、 いつまでもあなたの家から離れない。 あなたがわたしをさげすみ、
ヘテ人ウリヤの妻を取り、 自分の妻にしたからである。 』

聖書(サムエル記第二 12:9-10)


はっきりと罪を弾糾されたダビデの気持ちはどうだったのでしょう。周りの国も恐れる敵なしのイスラエルの王様です。もし、このことを認めるなら、自分の名声、評判が崩れ、人になんと思われるかわかりません。いや、王に対して何て口の利き方だ!とナタンを逆に罪に定めることもできました。
しかし、ダビデは、恥や今までの評判が崩れる恐れよりも、主のみことばに従ったのです。

ダビデはナタンに言った。 「私は【主】に対して罪を犯した。 」ナタンはダビデに言った。 「【主】もまた、 あなたの罪を見過ごしてくださった。 あなたは死なない。

聖書(サムエル記第二 12:13)


その後、ダビデは神様に何度の「私のしもべダビデ」と言われます。

神のみことばに従った人② ペテロとヨハネ

ペテロとヨハネもそうです。イエス様の御名と聖霊の力によって、奇跡を起こしていたペテロとヨハネは、大祭司アンナスを始めとするユダヤのリーダー達に訴えられました。

6 大祭司アンナス、 カヤパ、 ヨハネ、 アレキサンデル、 そのほか大祭司の一族もみな出席した。
7 彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、 「あなたがたは何の権威によって、 また、 だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しだした。

聖書(使徒の働き4:6-7)

そこで彼らを呼んで、 いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、 と命じた。

聖書(使徒の働き4:18)


イエス様が十字架で処刑されてからそんなに経っていない時です。迫害や命の危険があったはずです。しかし、ペテロとヨハネは人の目や迫害の恐れよりも、主のみことばに従ったのです。

19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。 「神に聞き従うより、 あなたがたに聞き従うほうが、 神の前に正しいかどうか、 判断してください。
20 私たちは、 自分の見たこと、 また聞いたことを、 話さないわけにはいきません。 」

聖書(使徒の働き4:19-20)


その後、神の国のリバイバルはイスラエルを超えて、ローマ帝国に広がっていきました。

神のみことばに従った人③ アナニヤ

最後に、使徒9:10に出てくるアナニヤもそうです。

10 さて、 ダマスコにアナニヤという弟子がいた。 主が彼に幻の中で、 「アナニヤよ」と言われたので、 「主よ。 ここにおります」と答えた。
11 すると主はこう言われた。 「立って、 『まっすぐ』という街路に行き、 サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。 そこで、 彼は祈っています。
12 彼は、 アナニヤという者が入って来て、 自分の上に手を置くと、 目が再び見えるようになるのを、 幻で見たのです。 」
13 しかし、 アナニヤはこう答えた。 「主よ。 私は多くの人々から、 この人がエルサレムで、 あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
14 彼はここでも、 あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、 祭司長たちから授けられているのです。 」
15 しかし、 主はこう言われた。 「行きなさい。 あの人はわたしの名を、 異邦人、 王たち、 イスラエルの子孫の前に運ぶ、 わたしの選びの器です。
16 彼がわたしの名のために、 どんなに苦しまなければならないかを、 わたしは彼に示すつもりです。 」

聖書(使徒の働き9:10-16)


サウロとは後のパウロですが、彼はクリスチャンを迫害し、ステパノの殉教も彼の仕業でした。いろんな思いや怒り、神様といえども理解できない!というような思いがあったでしょう。しかし、アナニヤは自分の感情や考えよりも、主のみことばに従いました。

17 そこでアナニヤは出かけて行って、 その家に入り、 サウロの上に手を置いてこう言った。 「兄弟サウロ。 あなたの来る途中、 あなたに現れた主イエスが、 私を遣わされました。 あなたが再び見えるようになり、 聖霊に満たされるためです。 」
18 するとただちに、 サウロの目からうろこのような物が落ちて、 目が見えるようになった。 彼は立ち上がって、 バプテスマを受け、
19 食事をして元気づいた。

聖書(使徒の働き9:17-19)

この後、主がパウロを通してどのような素晴らしい御業をされたかは知らない人がいないでしょう。

この三人の例で分かる通り、時に、神様のみことばに聞き従うことが難しい、不可能だと思わえることもあるのです。しかし、それでも神様のみことばに従った時に、神様はその信仰に答え、ご自身の栄光を表されるのです。

まとめ

今日、今一度、自分自身をみことばによってチェックしていきたいと思います。

私たちは、みことばに対してどのような態度を取っているでしょうか?
耳が鈍くなっていないでしょうか?

耳が鈍いとは、神のことばを聞いても従わない人。行なわない人。聞き従う心がなく、自分勝手に生きている人です。神のみことばを聞いても行なわないのに、人生の問題を乗り越えようとしてはいないでしょうか?

もし、みことばの通りに生きたいと思い、葛藤している人がいるなら、その人は幸いです。みことばに生きようとすれば、飢え渇きが起こります。それが、マタイ5章でイエスさまが義に飢え渇くものは幸いだと言った意味です。

聖書の教えが必要な人がたくさんいる。私たちが教えなければ誰が教えるのでしょうか?
職場で家庭、学校で。
義の教えを待っている人が日本にも1億2千万人います。誰がキリストの福音を伝えるのでしょうか?
みことばを実践している人です。

この世で生きていくには、霊的な見分けが必要です。キリストを知らない人々を誰が導くのでしょうか?それはみことばを土台としてよく訓練を受けている人です。

 自分にはできないと思っても大丈夫です。義に飢え渇くものは、神がその人を満ち足らせられるからです。 何で満ち足らせるのですか?みことばに従えるように聖霊の力で満たして下さるのです。神様はみことばを聞いて従う人を探しておられます。人々は、神のことばを借りる人ではなく、受肉し実践している人を待っています。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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