【人生を変える聖書のメッセージ#34】人生で繰り返す悪習慣のサイクル「彼らがうめいたので、【主】があわれまれたからである。」士師記 2:11-19

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はじめに

士師記は、モーセの後継者ヨシュアの死後の世代の話であり、今日の箇所の直前の箇所には、このように書いています。

その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、【主】を知らず、また、 主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。

聖書(士師記2:10)

「主を知らず」の知らずとは、ヘブル語では、頭によって知っているという意味ではなく、体験を通して知っているという意味です。
つまり、新しい士師記の世代のイスラエルは、頭では知っていても「主を体験していなかった。」世代とも言えます。

この「主を体験していなかった。」世代は、異教のカナン人との交流し、偶像礼拝をします。
そして、さらなる堕落、不道徳、イスラエルの部族同士の内戦へと進展し、士師記は終わります。

これが、士師記が「イスラエルの歴史の中でも最も霊的に堕落した暗黒の時代」と呼ばれている所以です。

この士師記には何度も繰り返さされるサイクルがあります。

「背教(11~13節) -さばき(14~15節)-悔い改め(18節)-救い(18 節)」

今日の2章には、このサイクルが序論のように書かれており、これから「士師記を通して何度も出てきますよ」注目してくださいね。という著者のメッセージがあります。
簡単にそれぞれを見ていきたいと思います。

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士師記で繰り返されるサイクル

①背教(11~13節) 

11 それで、イスラエル人は【主】の目の前に悪を行い、バアルに仕えた。
12 彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、【主】を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、【主】を怒らせた。
13 彼らが【主】を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、

聖書(士師記2:11-13)

主を知らない世代は、まず「主を捨て」ました。これは、12と13節に二度も強調されています。

次に、

②さばき(14~15節)

14 【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。 主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。
15 彼らがどこへ出て行っても、【主】の手が彼らにわざわいをもたらした。【主】が告げ、 【主】が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。

聖書(士師記2:14-15)

カナン征服のときとは全く異なり、神がともにおられないイスラエルは、カナンに立ち向かうことすらできませんでした
これは、ヨシュアを通して、神様が警告していたことでした。

主があなたがたに命じたあなたがたの神、【主】の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、【主】の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。」

聖書(ヨシュア23:16 )

③悔い改めと救い(16~18 節)

16 そのとき、【主】はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。
17 ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行い、それを拝み、彼らの先祖たちが【主】の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行わなかった。
18 【主】が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、【主】はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、【主】があわれまれたからである。

聖書(士師記2:16-18)

敵の圧政に苦しむイスラエルの民を、神様は救い出します。

問題はこの「背教(11~13節) -さばき(14~15節)-悔い改め(18節)-救い(18 節)」というサイクルを、イスラエルの民が何度も繰り返すということです。

しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行いや、頑迷な生き方を捨てなかった。

聖書(士師記2:19)

士師記では、神様は何度も何度も士師を起こし救われました。
サムエル記から預言書に至るまでも、神様は何度も何度も王や預言者を起こし救われました。
イスラエルの民は、このサイクルを何度も何度も繰り返します。

しかし、このサイクルを繰り返すのは、イスラエルの民だけではありません。
現代を生きる私たちもこのサイクルを繰り返すことがあります。

初めは神を知らないで生活していたが、罪による苦しみ(さばき)の中でもがきながらうめき生きているときに、神の救いを見出す。
しかし、イエス様を信じていながらも、信仰が弱くなったり、教会から離れたり、再び罪深い生活に逆戻りする。
そして、また苦しみ、悔い改め、神の憐れみにより戻ってくる。
そして、また、信仰が弱くなる。

二度あることは三度ある

アメリカのウェストワシントン大学の調査によると、一般的な既婚女性の離婚の確率が50%程度だったのに対し、
「過去に浮気をしたことがある」と回答した既婚女性の離婚の確率は、160%にものぼりました。
100%超えてるのは2回以上離婚する人が多くいるということです。

平成28年の犯罪白書によると、犯罪を犯した人のうち、48%が以前にも摘発されたことがある「再犯者」でした。

つまり、浮気だろうが、犯罪だろうが、根本的な問題を対処しないと、また同じ行動を繰り返しやすいということです。

まさに、「二度あることは三度ある」ということわざです。

では、神を捨て、救われても、また神から離れようとする私たちの根本的な問題とは何なのでしょう?

今日の箇所は、2つのことを教えています。
A偶像礼拝と、B形だけの悔い改めです。

問題1 偶像礼拝

それで、イスラエル人は【主】の目の前に悪を行い、バアルに仕えた。

聖書(士師記2:11)

「なぜ、こんなに簡単にバアルやアシュタロテを礼拝するんだろう?」
  私たちにとってバアル(写真)は魅力的に思えまぜん。
こんな像を拝むなんてありえない。とまで思いませんか?

しかし、偶像礼拝は現代にとっても、最も人間が陥りやすく、神が憎むものである。

なぜか?
それは、11節の【主】の目の前に悪を行いにヒントがあります。

士師時代のイスラエル人は、一言で「主の目の前に悪を行い」ました。
「目の前に」と訳されたヘブル語アインは、17章6節では「(自分の)目に」と訳されているように、この語は「〜が見るに」という意味があり、判断の基準となるものを表しています。

イスラエルは、主の基準で悪いことを行ったということです。
後にイスラエルの人々は、「自分の目に正しいと見えること」を行いました (17.6; 21:25)。

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。

聖書(士師記17:6)

ここでは、イスラエルの行動の判断基準がそれでもまだ「主」となっていますが、本書の終わりに来ると、その判断の基準が自分自身になります。

つまり、どういうことか?
イスラエルが偶像礼拝に陥った原因は、神様の基準から離れて行っただけではなく、その基準がどんどん「自分たち」になっていったということです。
これは、ある意味では、罪の根源です。

善悪の知識の木の実を食べたアダムとイブは、何が正しいか、何か正しくないかを自分たちで判断するようになりました。
本来、善悪の判断は神様の領域でした。

偶像礼拝とは、まさに「神」から「自分」へと基準が変わって行くこと。
「神」から「自分」へと基準が変わって行くと、神に従うことよりも、自分の欲を満たすために、偶像を造り出していきます。

彼らが【主】を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、

聖書(士師記2:13)

バアルは暴風と豊穣の神であり、アシュタロテはバアルの妻で、戦争と多産の女神でした。
カナンの地では主に農耕によって生計を立てていたので、雨が降らないと生きていけませんでした。
カナンの地には、戦争に強いカナン人たちが周りに混在していたので、多くの子供を作って勢力を拡大することは必須でした。

現代を生きる私たちにとって偶像で最も思いつくのは、お金でしょう。

イエス様はこのように言っています。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

聖書(マタイ6:24)

金があればすべて解決できると思っていないか?
私たちが思っていなくても、そのように生活しています。
なぜなら、社会はお金中心で回っているところがあるからです。

お金もちの男の方が、結婚できる確率は高くなります。

仕事はどうでしょう?
なぜ、仕事が偶像になるのか?
それが、成功と社会的ステータスや権力につながるのですが、仕事の成功は給料と比例します。
平社員が頑張って社長になって、給料が下がることは普通はありません。

本来、仕事は金を稼ぐためではない。
しかし、多くの人にとってお金がないと生活できないので、仕事をしなくてはならないという思想が凝り固まっている。

私たちはお金によって生活ができているのではない。神によって養われているのです。
もちろん、仕事をやめろとか、するなとか言っているのではない。

しかし、仕事がなくても、生きていけるということを知っているか?信仰があるか?ということ。

銀行員から神学生へ

私はそれをKBIの神学生のときに試されました。
授業料も払えなくなったとき、妻と婚約しました。
韓国の両親に挨拶。
「家電はどうする?」
「娘さんはお任せください。すべて私が用意しますので心配しないでください」

税金を滞納していて、犬の散歩のアルバイトで買った婚約指輪。

イスラエルの民はそのことをカナンの地に行く前に徹底的に教え込まれました。
彼らは荒野で40年間生きました。

しかし、何と書いてありますか?

この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。

聖書(申命記 8:4)

なぜ?

2 あなたの神、【主】が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

聖書(申命記 8:2-3)

私たちはお金によって生活ができているのではない。神によって養われているのです。
私たちもそれができると本当に信じているか?

みんな貧困になりなさい。お金を捨てなさい。社会的に失敗しなさい。そういうことではなく、
世が与える富や名誉が、自分の欲を満たす方向に使われるなら、神への不従順につながるということです。

イスラエルの真の神、イエス様がいなくても生きていける!そう思った時、偶像礼拝が私たちの生活に侵入するのです。

それを不従順といい、それを聖書は偶像礼拝の本質だと言っています。

まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

聖書(1サムエル15:23)

偶像礼拝、すなわち、神への不従順、神以外のものに頼ることをやめないので、イスラエルはどんどん堕落していったのです。

問題2 形だけの悔い改め

「背教(11~13節) -さばき(14~15節)-(悔い改め(18節))-救い(18 節)」

実は、このサイクルの悔い改めは、( )をつけるのが妥当です。
なぜか?
イスラエルの悔い改めは、形だけの悔い改めだったからです。

【主】が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、【主】はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、【主】があわれまれたからである。

聖書(士師記2:18)

この個所を見ると、まるでイスラエルがうめいて悔い改めたために、神が心を変えられたかのように読み取れますが、「うめく」と訳された「ネアカー」というヘブル語は、悔い改めとは全く関係のない言葉です

また、これが形だけの悔い改めであったことは、イスラエルの民のその後の行いを見れば明らかです。

悔い改めには、ふさわしい行いが伴うのです。

ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです。

聖書(使徒26:20)

同じサイクルをぐるぐる繰り返す、イスラエルの問題は、偶像礼拝と、その罪を真に悔い改めないことでした。
このことは、士師記だけではなく、預言者エゼキエルを通して、神様ははっきりと言っています。

それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。

聖書(エゼキエル 14:6)

どうやってサイクルから抜け出すのか?

先ほど、根本的な問題を対処しない限り、同じ行動を繰り返してしまうといいました。

しかし、ここに、大きな皮肉、ジレンマがあります。
善悪がわかっても、そのように生きられないように、原因がわかっても、それを解決できないのが人間です。

私たちにそこから脱出する力はありません。
当時のイスラエルの民と私たち、何が違うのでしょうか?

しかし、私たちはこのサイクルから抜け出す唯一の方法があります。

「神に出会うこと」です。
エンカウンターするならば、根本的な問題は解決します。

心が変わります。信仰が変わります。生き方が変わります。行動が変わります。
私たちを変えることのできる方は、私たちを造られたお方だけです。 

形だけで悔い改めたイスラエルを、どうして神様は救ったのでしょうか?…

ただただ、神様の憐れみのゆえです。
イスラエルのうめきを、神は聞くに堪えられず、彼らを救われたのです。
神の救いは民の悔い改めに対する代価ではなく、神の全面的な恵みなのです

私たちは自分の失敗や過ちのゆえに苦しみ、うめくかもしれません。

しかし、神様は、とことん憐れみ深い方ですので、
私たちが、生活から偶像礼拝を徹底的に取り除き、罪を真に悔い改めるまで、神様は私たちの心をノックされます。

「向きを変えなさい!戻って来なさい!」

神様は何度も何度も士師を起こし救われ、
神様は何度も何度も王や預言者を起こし救われました。
それでも、このサイクルから抜け出せないイスラエルに対して、神自らが来られたのです。

それが、イエス・キリストです。
しかし、人々は彼の言葉に耳を傾けず、神ご自身を鞭打ち、十字架にかけて殺しました。

1 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。 
2 季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。 
3 ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。 
4 そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。
5 また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。 
6 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、 敬ってくれるだろう』と言って、最後にその息子を遣わした。 
7 すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。 』 
8 そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。

聖書(マルコ12:1-8)

イエス様は殺されました。
では、神の憐れみは無くなったのでしょうか?

いいえ。
イエス様は復活され、天に昇られ、聖霊を与えてくださいました。
聖霊は、「助け主」です。

神様の憐れみは変わりません。

「いつでも、戻って来なさい」
「いつでも、戻って来なさい」
「愛する息子よ。愛する娘よ。」

それが私たちの信じているイエス様です。
それが、聖書の変わらない憐れみに満ちた神様です。

まとめ

今日、憐れみ深いイエスさまに心の扉を開きましょう。

方向を変えて、父の元に戻りましょう。
イエス様の十字架に飛び込みましょう。
聖霊様に身をゆだねましょう。

憐れみ深い神を体験するなら、
その時、真の悔い改めが起こり、偶像礼拝の不従順は、神への全き従順へと変わるのです。

【主】が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、【主】はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、【主】があわれまれたからである。

聖書(士師記2:18)
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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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