【人生を変える聖書のメッセージ#9】信仰は旅である ① 旅の始まり- 信仰の土台「どんな状況でも、神に信頼することができるか?」 ローマ人への手紙1章16-17節

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はじめに

クリスチャンとは、「ひとえにどんな状況でも、神に信頼することができるか?」
このことに尽きると思います。この質問の答えはいつだって決まっています。どんな時でも神に信頼する。

しかし、このように誰もが答えをわかっていても、毎週メッセージを聞き、毎日聖書を読み、祈るのはなぜでしょうか?それは、私たちは単純に信頼することが難しい時があるからです。調子が良い時に、口で私はどんなことがあっても主に信頼しますと言うことと、自分や自分の家族が病気になった時にでも、主よあなたに信頼しますと言うことは違うのです。

私は、姉が若くして天に召された時に、自分の信仰が車のギアのニュートラルになったように感じました。その時、自分の中では理屈が通らなくなったので、自分が本当に信じている神様が何を考えているのかがわからなくなったからです。もちろん神様に祈って、そのあと答えをいただいて、今はどんな時でも神様に信頼するということがわかるようになり乗り越えていくことができたんだと思います。

お金があるときに、神様が何を言っても信じて従います!というのと、ない時に、信じて捧げます!とでは全然違うのです。あっても難しいこともありますね。

人間関係でトラブルにあった時、大きな失敗、裏切りにあった時、どうしていいかわからないほどの人生の高い壁にぶつかった時と、平穏な時とでは、「主よあなたに信頼します」と言うことは意味合いが違ってくるのではないでしょうか?神を信頼すること、それを聖書では、信仰とも言います。シンプルですが、このように、信仰生活は一筋縄ではいきません。

韓国にいた時、神学校の教授が、話した言葉がとても心に残っています。彼は、「Faith is a journey」。つまり信仰は旅であると言いました。私たちの信仰生活そのものが旅であるともいえます。この「信仰の旅」というイメージを理解することは、信仰生活でとても大事です。特に最近信仰を持たれた方です。

なぜなら、信仰生活というものは、少なくても、信じてからこの世を去ってイエスさまに天国で会うまで一生涯続くからです。その中で、もし学生の時にイエスさまを信じたなら、結婚、就職、出産と人生の様々な変化を体験し、順調なこともあれば、大変な試練の時も通るのです。「神さまって本当にいるんだろうか?」と思うかもしれないし、仕事が忙しくて教会に行けなくなって、信仰から離れたりもするかもしれません。だから、信仰生活とは旅なのです。そして、旅には、始まりがあって、旅の期間があり、終わりがあります。

今日から、約9回に渡って、「信仰は旅である」という信仰に関するメッセージシリーズをしたいと思います。今日は、信仰の旅の始まり- 特に、信仰の土台は何か?ということについて一緒に考えてみましょう。

信仰とは?

今回の聖書箇所のローマ人への手紙1章16-17節には、福音、救い、神の義、義人といった、重要な事柄がパウロによって語られていますが、パウロは、それらを「信仰」というテーマによって説明してます。

私は福音を恥とは思いません。 福音は、 ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、 信じるすべての人にとって 、 救いを得させる神の力です。

聖書(ローマ人への手紙 1:16)


まず、パウロは、福音を恥とは思いません。と宣言します。なぜなら、イエス・キリストの福音は、それ自体が神の偉大な力であり、すべての人に救いをもたらすからです。しかし、条件が書いています。「信じるすべての人にとって、」信仰が不可欠であるということです。17節も見てみましょう。


なぜなら、 福音のうちには神の義が啓示されていて、 その義は、 信仰に始まり信仰に進ませるからです。

聖書(ローマ人への手紙 1:17)

「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ここを理解するには、「その義は、 信仰に始まり信仰に進ませるからです。」という難解な日本語を言い換えなくてはいけません。わかったつもりで読んでも、何を言いたいのかよくわからない表現だからです。文脈から、新共同訳、英語のNIVの訳が適当だと思います。

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

聖書(ローマ人への手紙 1:16-18)新共同訳(NIV)

つまり、神の義は、イエス・キリストの福音に現されているが、その義は、信仰によって明らかになるということです。ここでも、信仰が不可欠であるとパウロは言っています。言い換えるならば、信仰がなくては、神の力も、神の義も、神の救いも私たちに与えられないということです。逆に信仰があれば、私たちは、私たちの人生、生活において、神の力、神の義、神の救いが現れていくんだという力強い宣言なのです。

これを、16世紀の宗教改革者、マルティン・ルターは、「信仰義認」と言いました。そこが、プロテスタントの一つの柱となっています。私たちが救われるのは、義とされるのは、ただ信仰によってであって、人の努力、善行は関係ないということです。それを私たちは恵みと言います。恵みとは、受けるにふさわしくない者が、ただ憐れみによって受けること。罪人である私たちが、ただ、キリストの十字架の死と復活を信るだけで、受け入れるだけで、義とされ、救われるということです。

信仰の2つの意味

ここまで、「信仰はとても大事ですよ」と、ざっと説明しました。しかし、今日は、もう少し「信仰」というテーマを掘り下げていきたいと思います。

私たちがよく使う「信仰」という言葉ですが、どういうイメージがありますか?私たちが「信じる」という行為という風に捉えていますよね?これは、日本語の訳であって、原語を見ると実は、二つの意味があります。一つは、私たちの信頼。「イエス・キリスト信じる信仰」と言うことで、信じるこちら側の信仰のことを言っています。もう一つは、「イエスキリストの真実さ、誠実さ、忠実さ」です。なぜなら、「信仰」と訳されたギリシャ語「ピスティス」には、人間が信頼するという意味だけではなく、本来は、“真実、誠実、忠実”という意味がベースになっているからです。
つまり、聖書の「信仰」という言葉には、私たちの信頼と、神様の真実さの二つの意味があるのです。

17節を読んで見ましょう。

なぜなら、 福音のうちには神の義が啓示されていて、 その義は、 信仰に始まり信仰に進ませるからです。 「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

聖書(ローマ人への手紙 1:17)


「義人は信仰によって生きる」とは旧約聖書のハバクク書2章4節の引用です。

ハバククは、アッシリヤがイスラエルを圧制しているときに、神の義を求めてあなたの義はどこにあるのかと神に問いました。その時に神が預言的に与えてくださった答えが、「正しい人は信仰によって生きる」でした。

見よ。 彼の心はうぬぼれていて、 まっすぐでない。 しかし、 正しい人はその信仰によって生きる。

聖書(ハバクク書 2:4)


パウロが引用した旧約聖書のハバクク書で「信仰」と訳されているヘブル語は、「エムナ」です。このエムナは、ギリシャ語のピスティス同様に、「真実、誠実、忠実」とも訳せる言葉です。エムナの意味も二通りあるように、実は、このハバクク2:4は、ヘブル語聖書、ギリシャ語の七十人訳聖書などを元にさまざまな解釈が可能です。マソラ写本(MT)には、正しい人は、彼の信仰によって生きる。と人間の信頼を強調していて、七十人訳聖書(LXX)には、正しい人は、私の信仰によって生きる。と神の真実さを強調しています。

どっちの写本がより原典に近いのかは、正直決断するのが難しいです。なぜなら、パウロは、ヘブル語聖書(MT)も、ギリシャ語訳聖書(LXX)、どちらも使っていたし、元々はヘブル語の写本だからです。では、パウロは、私たちの信頼と、神の真実さ、どちらの訳を採用したのでしょうか?パウロが引用したハバククを比べて見ましょう。

見よ。 彼の心はうぬぼれていて、 まっすぐでない。 しかし、 正しい人はその信仰によって生きる。

聖書(ハバクク書 2:4)

なぜなら、 福音のうちには神の義が啓示されていて、 その義は、 信仰に始まり信仰に進ませるからです。 「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

聖書(ローマ人への手紙 1:17)

ハバクク書と、ローマの違いがあるのがわかりますか?ハバクク書には、信仰という言葉の前に「その」という言葉がついていますが、パウロはそれを取っています。新約聖書でこのハバクク書2章4節は3回引用されていますが、すべて「その」が意図的に取られて、ギリシャ語を読むと、誰の信仰ががわからないようになっています。なぜ、パウロは意図的に、「その」とか、「彼の」とか、「私の」「神の」とかいうことを省いて、ただ信仰と言ったのでしょうか?

それは、信仰の二面性の両方が不可欠だからです。私たちの信頼という行為。そして、神の真実さ。言い換えるなら、信仰とは、決して揺るぐことのないキリストの真実さに信頼するということです。私たちの信仰は、私たちの力、私たちの真実さ、忠実さ、誠実さを土台にしてはいけません。私たちの信仰は、ある時は状況や試練によって簡単に揺らいでしまうからです。

しかし、私たちが私たちの信頼を、神の決して変わらない真実さに据えるなら、私たちが揺れ動いても、私たちの信仰が弱くなっても、私たちは真実な神に信頼することができるからです。からし種ほどの信仰があれば山が動くとイエス様は言われました。このように私たちの信仰とは、私たちが思っている以上に小さいのです。逆を言えば、神の真実さは簡単に山を動かすことのできるのです。神が、山よ海に入れと命じれば、神の言葉の真実さはそのようになります。100%です。

それでは、私たち側の信仰は必要ないのでしょうか?そんなことはありません。主を信頼するのは、私たちです。今日、強調したいのは、私たちの信仰の土台は、「キリストの真実さ」にある、そこが信仰のスタート地点だということです。

【例】①友達の癒し

4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、 その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、 穴をあけて、 中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
5 イエスは彼らの信仰を見て、 中風の人に、 「子よ。 あなたの罪は赦されました」と言われた。

聖書(マルコの福音書2:4-5)


聖書ははっきりと、彼ら、つまり四人の友達の信仰をイエス様がご覧になって、中風の人が癒されたと記しています。
私たち側の信仰は必要です。しかし、彼らは何に信頼を置いたのでしょうか?それは、その後の律法学者の言葉でわかります。

6 ところが、 その場に律法学者が数人すわっていて、 心の中で理屈を言った。
7 「この人は、 なぜ、 あんなことを言うのか。 神をけがしているのだ。 神おひとりのほか、 だれが罪を赦すことができよう。 」

聖書(マルコの福音書2:6-7)


律法学者たちは、イエス様が罪を赦すことのできる真実なお方だとは、信じていませんでした。しかし、この四人の友達は、どんな罪でも許すことのできる、どんな病も癒すことができるイエス様に信頼しました。「私たちにはできない。でもイエス様なら!」とイエス様の真実さ、誠実さ、忠実さに信仰を持ったのです。

【例】②水の上を歩いたペテロ

28 すると、 ペテロが答えて言った。 「主よ。 もし、 あなたでしたら、 私に、 水の上を歩いてここまで来い、 とお命じになってください。 」
29 イエスは「来なさい」と言われた。 そこで、 ペテロは舟から出て、 水の上を歩いてイエスのほうに行った。

聖書(マタイの福音書14:28-29)


ペテロはイエス様の言葉を信じました。すると、水の上を歩きました。ブログを読んでいただいてる方の中で、水の上を歩いた人はいますか?イエス様が「来なさい」と言って、信じるなら歩けるでしょう。しかし、彼がイエス様から目を離した時に、恐れが来て沈みました。

ところが、 風を見て、 こわくなり、 沈みかけたので叫び出し、 「主よ。 助けてください」と言った。

聖書(マタイの福音書14:30)


そして、イエス様はなんと言いましたか?

31 そこで、 イエスはすぐに手を伸ばして、 彼をつかんで言われた。 「信仰の薄い人だ
な。 なぜ疑うのか。 」
32 そして、 ふたりが舟に乗り移ると、 風がやんだ。

聖書(マタイの福音書14:31-32)

イエス様の御言葉は、そのまま信頼するに値します。水の上で「来なさい」と言えば、歩けるのです。イエス様はご自身の言葉を必ず忠実に果たされます。ハバククで信仰と訳されたへブル語の「エムナ」は、神の御言葉の真実さにも使われています。また、神の忠実さ、誠実さは、イエス様の生涯を通する父なる神への従順を見てわかるでしょう。イエス様の十字架上で完璧に表された真実さ。そして、死んで終わりではなく、実際に復活し、罪を打ち破り、この世の全ての人の罪を解決する道を開かれたのです!神を信じても、弱く「できない~」とわめく者たちにも、助け主聖霊を送られる徹底ぶり。

ペテロは、なぜ、恐くなったのでしょうか?イエス様から目を離したからです!それがイエス様が言った信仰の薄い人です。

信仰の創始者であり、 完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

聖書(ヘブル人への手紙12:2)

私たちの人生でも、キリストから目を離してしまう時があります。なぜなら、私たちの人生には、突如、嵐が吹き荒れるからです。イエス様が近くにいても、嵐は起こる時があるのです。その嵐は、サタンの攻撃かもしれません。仕事の問題。家族の問題。経済的な問題。自分自身の内側の問題。中風の人のように病かもしれません。しかし、その時にでこそ、風を見るのではなく、風を造り、支配されている万軍の主イエス・キリストの真実さに目を留めるのです。イエス様の御言葉は真実です。 キリストご自身に信頼してください。目を離してはいけません。それは私たち側の選択です。 

まとめ

今日、私たちが踏み出すべきことはなんでしょうか?イエス様ご自身に信頼しましょう。イエス・キリストの真実さ、誠実さ、忠実さが土台になっているか、チェックする必要があります。イエス様が十字架上で表された真実な御業を、その真実な愛によって、私たちは罪から救われ、信仰によって生きるのものとされたのです。風を見ないで、イエス様を見ましょう。

イエス様が、「私はあなたを決して見放さず、決して見放さない」と聖書で言っているではありませんか?大丈夫です。信頼してください。イエス様が、「ついて来なさい」と言われたではありませんか?大丈夫です。信頼して、ついて行ってください。「私には強い信仰はありません」と諦めそうになっている方はいませんか?イエス様は言いました。

しかし、 わたしは、 あなたの信仰がなくならないように、 あなたのために祈りました。

聖書(ルカの福音書 22:32)


今も、私たちのために天上でとりなし祈ってくださっておられる方がいるのです。それが、私たちの主、イエス・キリストです。イエス様の「エムナ」イエス様の、真実さ、誠実さ、忠実さを今日も心に刻み、今日も、明日も、永遠に私たちの横におられり聖霊なる神、とりなし祈っておられるイエス様を見つめ続けていきましょう。

読んでいただきありがとうございます!このメッセージはYoutubeでもご視聴いただけます。

この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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