山上の説教㉝ 狭い門から入りなさい「救いの条件とは?」(マタイ7:13-14)

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はじめに

「きみはかんちがいしてるんだ。道をえらぶということは、かならずしも歩きやすい安全な道をえらぶってことじゃないんだぞ」
これは、誰の名言かご存知でしょうか?
ドラえもんです。(『漫画 ドラえもん』42巻より)
芸術家の岡本太郎さんもこのように言いました。
「私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた」
人生の成功者は口を揃えて、選択肢があるなら困難な道を選べと助言しているように思います。

今日の聖書の箇所にも2つ道が出てきます。
広い門と狭い門。狭き門というのは日本では競争者が多くて就職や入学などが難しいことを表すのに使いますよね?
実は、これは聖書のこの箇所が由来なんです。
では、イエス・キリストが語られた「この門についての話」は本来は、何を意味しているのでしょう?
今日は、3つのポイントでお話します。

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①門は何を表しているのか?→救いと滅びの選択肢

門は2つしかありません。
誰もが、救われるか、滅びるかしかありません。
救いとは、この世で死んだ後の話です。永遠のいのちにより、神様や愛するものたちと天国に住みます。
滅びとは、永遠の裁きと苦しみの地獄に入れられることです。

「いやいや、そんなことはないでしょ!」と誰かが言ったとしても、キリスト信じていない全ての人が滅びないということを証明できる人は一人もいません。
そのように否定して安心したいだけですが、聖書にははっきり、2つの道しかありません。
聖書は旧約聖書から一貫して、救いの道と滅びの道を示し、救いの道を選ぶように熱心に語りかけています。

主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」

聖書(ヨシュア24:15)

わが子よ、彼らと一緒に道を歩いてはならない。彼らの通り道に、足を踏み入れてはならない。

聖書(箴言1:15)

「あなたは、この民に言え。『主はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。

聖書(エレミヤ21:8)

イエス様は、2つの門をそれぞれ、狭い門と広い門と言いました。
狭い門が、救いの道につながります。
広い門は、滅びの道につながります。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。

聖書(マタイ7:13)

イエス様は、もちろん、救いの道につながる 狭い門から入ることを勧めます。
しかし、実際は、滅びの道へ続く、広い門から入る人が多いというのです。
では、次に気になるのは、広い門と、狭い門に入ることは何を表しているのか?ということですよね?

②広い門に入るとは何なのか?→広い門は人間の義で救いを得ようとすること。

まず、「人間の義で救いを得ようとする」とはなんでしょう?
当時、天国に行ける道として広く認められていたのが、パリサイ人と律法学者の教えと行いでした。
いわゆる「律法主義」と言われる、律法に書いてあるこれを守っていれば救われる。
律法を破ったら救われないという教えです。

もちろん、パリサイ人や律法学者の教えの根本には、神の恵みによって救われるという信仰があったでしょう。
しかし、彼らは律法を守ることに偏ってしまっていたことは事実であり、イエス様がそのように指摘しています。

わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

聖書(マタイ5:20)

「律法学者やパリサイ人の義」とは、律法を守ることによって得られる救いのことです。
その義にまさっていなければ、天国に入れない、つまり、人間の義ではなく、神の義によってしか天国に入れませんよと説いたのです。

なぜ、人間の義によって救いを得ようとすることの方が、広い、つまり簡単なのでしょうか?
正直、私たちは「パリサイ人や律法学者」を馬鹿にできません。
彼らは律法を守ために、めちゃめちゃ自分に厳しく、努力しています。

毎日、三回どこであっても祈祷書で祈ります。
安息日には、エレベーターのボタンも押さず、電気のスイッチも前の日に自動で予約するくらい徹底して働こうとしません。
もちろん、豚肉も食べずに、マクドナルドに行く時は食物規定を守っている店舗でしか食べません。

イスラエルに少し住んだ方ならわかると思いますが、逆に彼の熱心さに対する敬意が生まれるほど、彼らは聖書の律法を愛し、守ろうとしているのです。
どうしても、広い門には見えません。
しかし、事実、イエス様は人間の努力による義を広い門と言いました。
それは、「それっぽく見える」からです。
熱心さが求められ、大変で厳しい修行をすることは、「ここまでやっているから、救われるように見える」のです。

これは、ユダヤ教だけではなく、他宗教にもいえます。
仏教の修行を苦行を見れば、頭が下がります。
イスラム教徒もメッカに対する祈りを一日何回もします。
みんな熱心です。
熱心で、頑張っているからこそ、何となく救われそうな気がします。

もっと、広げるなら、宗教関係なく、良い行いや、良い性格の人も、救われそうな気がします。
あんないい人が、地獄に行くわけないでしょ!と思うくらい、社会に対して多額の寄付をし、人々を愛し、素晴らしい人格をもった人は歴史を通してたくさんいました。
皆さんもどうでしょうか?
「いいことをしている」「いい心を持つ」そう心がけて生きるなら、なんか将来報いが来そうじゃないでしょうか?

聖書ははっきり言っています。
「宗教的な修行」「すべての良い行い」「良い心」で、救いを得ることはできません。
宗教に熱心な人に聞いてみるといいんです。
「救いの確信はありますか?」
ある熱心なイスラム教徒は、「どんなに頑張っても救いの確信がない」と漏らしていたそうです。

当たり前です。
どこまで良い行いをしたら救われるかという基準がないんですから。
人間は不完全なので、良い行いをしても、相手にとってお節介になったりしますし、
いくら自分は良い心を持とうと思っても、邪念や悪い欲望を完全に消すことはできません。
人間の義を突き詰めていけばいくほど、人間の義は不完全であることにぶつかるのです。
これが広い門です。
では、狭い門とはなんでしょうか?

③狭い門に入るとは何なのか?→狭い門は神の義によって救われること。

聖書は、はっきり、神の義は、キリストの福音を信じることで与えられると言っています。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

聖書(ローマ3:20)

「律法学者やパリサイ人の律法を守ることによっての人間の義」では、救われないという意味です。
今日の箇所的にいうなら、広い門の否定です。

21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。

聖書(ローマ3:21-22)

「与えられる」ここが大事です。
救いは私たちが得ようとするのではなく、神から与えられるのです。
だから、「信じるものは、救われる」なのです。
なんだ簡単じゃん!と思います。
簡単なら、普通、広い門なはずです。

では、なぜ、イエス様は、狭い門と言ったのでしょうか?
それは、信じることが簡単なように見えて、逆に難しいからです。
人間の義→良い行いや良い心:難しいように見えて、簡単。→だから広い門(でも、完全な義には到達できないので滅び)
神の義→ただ信じる:簡単なように見えて、難しい。→だから狭い門(完全な義を受け取れるので救い)
「狭い」のギリシャ語の原語「テスリンメネー」は、狭いことだけではなく、“苦しみ、苦難”の意味があります。
パウロは救いのためには苦しみがあると言っています。

私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。

聖書(2コリント1:6)

愛する人が自分を捨てて逃げたり、裏切りも経験するかもしれません。

しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。

聖書(マタイ26:56)

時には神に捨てられたように感じる時もあるでしょう。

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

聖書(マタイ27:46)

また、「狭く」の原語には、「無理に押さえつける、圧迫する、煩わしくする、悩ませる、心を痛ませる」というニュアンスもあります。
なので、迫害も意味します。

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

聖書(2テモテ3:12)

じゃあ、こんな狭い門に入るためにはどうすればいいのか?
そのために必要なものは、皆さん何だと思いますか?
「努力」です。
え?いやいや、救われるには努力必要ないいうたやん!
努力するのは、人間の義を求める人たちやん!

皆さん、聖書は努力自体を否定していません。
何に対して努力をするのかというベクトルが大切なのです。
ルカの福音書の並行箇所を見てみましょう。

「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。

聖書(ルカ13:24)

努めなさい→努力しなさい。
「努めなさい」→競技する選手や戦争で兵士たちが、勝利のために全力を注ぐことを意味します。
では、何のために努力するのか?
義を得るために努力するのではありません。これは広い門。
信じ続けるために、努力が必要だということです。

競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

聖書(1コリント9:25)

信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。

聖書(1テモテ6:12)

私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

聖書(2テモテ4:7)

この世の富や成功で、神から離れさせる誘惑があります。
神なんていないんじゃないか!神は私を愛していない!と思わせる困難があります。
サタンや悪霊も、神様を信じさせることから引き離したく必死です。

だからこそ、「信じ続ける」努力が必要なんです。
もちろん、努力で信仰を守り抜くという言葉には語弊があります。
信仰を守り抜くことも、聖霊の働きだからです。
しかし、だからと言って私たちが、ボケーとしているのが正しいのかと言われれば、それも違うのです。
矛盾しているようですが、聖書ははっきりと言っています。

「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。

聖書(ルカ13:24)

サタンの攻撃に打ち勝つために、祈る時間をとる必要があるでしょう。
仕事が忙しくても定期的に聖書を学ぶ時間をとるためには、ある程度の時間的な犠牲も必要でしょう。弟子訓練を完了した人は本当によく努力されました。
毎週、日曜に神の家族とともに、キリストのからだとして、礼拝に来ることもまた、ある人にとっては努力を要するのです。

私たちは、神様から思いを離してしまう弱さがある。
だからこそ、日々、聖書を読み、祈る時間、神を覚える時間、神を愛し、人を愛するために与えられた時間とエネルギー、能力や立場を用いること。

そのために「優先順位を考えたり、計画を立てたり、実行に移したり」という努力は必要だということです。

まとめ

①門は何を表しているのか?
→救いと滅びの選択肢
②広い門に入るとは何なのか?
→広い門は人間の義で救いを得ようとすること。
③狭い門に入るとは何なのか?
→狭い門は神の義によって救われること。

人間の義→良い行いや良い心:難しいように見えて、簡単。→だから広い門(でも、完全な義には到達できないので滅び)
神の義→ただ信じる:簡単なように見えて、難しい。→だから狭い門(完全な義を受け取れるので救い)
【適用】ただ信じよう、そしてその救いを手放さないように努力しよう。

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