【聖書の終末預言㉕】イスラエルと聖書預言③ 新約聖書「メシヤを拒否したパリサイ人 」(マタイ13:14-15)

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はじめに

今日は、イスラエルについての聖書預言「メシヤを拒否したパリサイ人 」について説明します。

当時、イエスキリストが十字架にかけられて死なれたことはほとんどの人が知っていると思います。でも、どの映画や日曜のメッセージも、十字架に焦点が当てられており、イスラエルが待望していた「メシヤ」というポイントで解説していることは少ないのではないでしょうか?簡単に言えば、神様が人となって十字架にかかったという話ですが、イスラエル人が長年待ち望んできた「メシヤ」という観点から理解すると、一層深く理解することができます。そこには、旧約聖書からずっと、メシヤについての預言があったという背景があるのです。

このメッセージを読むと、 当時イスラエル民族が、一体どのような「メシヤ」を待ち望んでいたかが分かるようになります。 そして、旧約聖書の預言とイエス様の言葉が繋がり、確かに旧約聖書の預言の通り、イエスは拒否されていったことがわかるようになります。

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パリサイ人がメシアを拒否することは預言されていた

今日の結論は一言でいうと、「パリサイ人たちがメシヤを拒否することは、すでに聖書に預言されており、その通りに成就した」ということです。

A. パリサイ人が教えていたメシヤ像

神様は、イスラエル民族に対し、旧約聖書を通して、やがて来るメシヤ(キリスト)はどのようなお方であるかを教えておられました。その時に、重要なのが、当時の指導者パリサイ人です。パリサイ人とは、「パリサイ派の律法学者」のことです。

パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」

聖書(マルコの福音書 2:16)


律法学者とは、イスラエルの民に律法を教える宗教の指導者です。当時、律法学者のほとんどが、パリサイ派に属していました。このパリサイ派の律法学者、つまりパリサイ人は、現代イスラエルでは、ユダヤ教超正統派であると言われています。黒い服を着た人たちですね。



みなさんは当時、聖書があったと思いますか?ないですよね。今でこそ、アプリで聖書を読めますが、グーテンベルクという人が「活版印刷術」を発明したのが大体1400年くらいですから、それまではごく一部の人しか聖書を持っていませんでした。なので、イエス様の時代、当時はシナゴークというユダヤ教の会堂で、このパリサイ人たちが朗読するのをみんなで聞いていたのです。そして、パリサイ人が民衆に聖書を教えるので、みんなパリサイ人の解釈を通して理解していたというわけです。

どういうことでしょうか?つまり、旧約聖書を誰よりも知っているパリサイ人が、イエスをメシヤとして認めるかが、民族全体に大きな影響を与えるということです。ちなみに、当時は地域のシナゴーグを通して聖書を教えていたパリサイ人の他に、大祭司アンナスとカヤパ(ヨハネの福音書18:13)や神殿で奉仕していたサドカイ人たちが指導者としていました。名前は聞いたことありますよね?そして、彼らの特徴は、一言で言えば、霊的に腐敗していたということです。本来、大祭司は1人なのに、2人いることから明らかです。

では、話を戻して、パリサイ人が旧約聖書からしっかりと学び、「これがメシヤだ!」と民に教えていた特徴があります。大きく分けて3つです。

メシヤは、
1 生まれつき目の見えない人を癒す(ヨハネの福音書 9:1-7)
2 ツァラアトの人を癒す(マタイの福音書 11:2-6)
3 目も見えず、 ロも聞けない人で悪霊に取り付かれている人を癒す(マタイの福音書 11:2-6)

では、イエス様はこれらの特徴に当てはまるでしょうか?「イエスは本当にメシヤなのか?」と不安になったバプテスマのヨハネへのイエス様ご自身の答えから答えましょう。

目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

聖書(マタイの福音書 11:5)


これは、「私がメシヤです」と言っているのと同じです。

旧約聖書に書かれていたメシヤの条件にぴったりな、ナザレのイエスが現れた時、パリサイ人たちはどのように反応したのでしょうか?彼らの反応次第で、イスラエル人全体の未来が決まります。

B. パリサイ人がメシヤを拒否

パリサイ人たちはメシヤを拒否しました。

22 そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。
23 群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」
24 これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」

聖書(マタイの福音書 12:22-24)


「ダビデの子なのではないだろうか?」とは、「あれ?これってパリサイ人たちが教えてくれた聖書のメシヤじゃないのか?」という意味です。聖書を知っている民の中では、そのような考えが広まっていたのです。もちろん、イエスの弟子のようにメシヤと信じる人も大勢現れました。しかし、パリサイ人はイエスがメシヤであることを拒否したのです。

27 また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。
28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

聖書(マタイの福音書 12:27-28 )


神の国とはメシヤ王国です。メシヤがイスラエルに来て、全世界を統治するのは目と鼻の先でした。あとは、イスラエルが認めるだけです。しかし、パリサイ人は、イエスを悪霊つき呼ばわりしたのです。

28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。
29 しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」
30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

聖書(マルコの福音書 3:28-30)

C. パリサイ人の拒絶に対する預言

そして、今日のポイントは、パリサイ人がイエスを拒絶することがイザヤ書に預言されていたということです。

14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』

聖書(マタイの福音書 13:14-15)


ここで、イエス様が語られた「イザヤの告げた預言」とは、イザヤ書6章9-10節です。本来、イザヤ書では、神がイザヤに預言者の召命を与える中、当時のイスラエルの民のかたくなさについての預言でした。しかし、当時イエスのもとに集まっていた群衆も同様だったので、イエス様は、このみことばを「メシヤであるご自身を拒否した」ことに対して引用されたのです。ここで「鈍い」と訳された原語「バレオー」は、肥えて鈍い状態、つまり自分の考えや意志によって自分自身を肥えさせ、霊的に鈍くなっている状態を表します。

ここで疑問が生まれます。神様はすでにイスラエルの民がメシアを拒否することを知っておられたのなら、パリサイ人やイスラエルの民は悪くないのではないのか?神が拒否するように仕向けたのか?そんなことはありません。当時の全てのイスラエル人がメシヤを拒否したわけでないからです。イエスの弟子をはじめ、多くの人がメシヤとしてイエスを信じました。

しかし、残念ながら、それ以上に多くのイスラエル人が、イエスのことばに対してわざと目と耳を閉じ、霊的な癒しを拒んだのです。問題なのは、指導者であるパリサイ人の拒絶です。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。

聖書(マタイの福音書 23:13)

「入ろうとしている人々も入らせない」とは、パリサイ人の影響力が絶大であったことを意味します。彼らの指導によって、「やっぱ違うのかあ」となった民衆もたくさんいたはずです。特に聖書を教える指導者の責任は重大というメッセージでもあります。

また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。

聖書(マルコの福音書 9:42)


今日、大切なのは、もう一度いいますが、「パリサイ人たちがメシヤを拒否することは、すでに聖書に預言されており、その通りに成就した」ということです。しかし、同時に、聖書では終末(世の終わり)に、イスラエル民族がイエスをメシヤとして民族として受け入れることが預言されています。おそらく、パリサイ人たちが先頭に立ち、民を導くことでしょう。ここに聖書に目が開かれた指導者に対する希望があります。

まとめ

今日の結論は一言でいうと、 「パリサイ人たちがメシヤを拒否することは、すでに聖書に預言されており、その通りに成就した」 ということです。

確かに、2000年前、イザヤの預言の通り、パリサイ人の指導の元、イスラエル民族の多くはイエスを拒否しました。
しかし、聖書では終末(世の終わり)に、イスラエル民族がイエスをメシヤとして民族として受け入れることが預言されています。今度は、パリサイ人たちが先頭に立ち、民を導くことでしょう。

世の中は、聖書の預言の通りに進んでいるのです。しかし、預言の通りであっても、神様は私たちの意思を尊重されます。どんな時代でも、神に従うものと、そうでないものがいたのは事実です。世の終わりに語られた預言を聞いて信じ、信仰を失わずにいきましょう。

次回も続けて、現在成就している預言を取り上げていきます。次回は「エルサレムの滅亡」です。このことも聖書の預言通りに起こっていました。

読んでいただき、ありがとうございます。このメッセージはYoutubeでもご視聴いただけます。

参考資料:シリーズイスラエルの歴史と日本のリバイバルの関係Vol.1 聖書預言はどう実現しているのか /スティーブンス・栄子 / オメガ出版 使用画像元: Pixabay, Unsplash

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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